神の国の訪れ

二年ほど前のことだが、私の勤務先のビルの隣で新しいビルの建設が始まった。何ができるのかと思いつつ時折様子を見ていたが、ようやく今年の春先くらいに立派な野村総研のビルが完成した。見たところほとんどのオフィスビルがそうであるように、一階部分は共用スペースとなっており、コンビニなどの店舗が入居できるようになっていた。私の興味の対象は、そのビルの一階部分のテナントに、何のお店が入るのだろうか、ということであった。昼食やおやつに、何をどれくらで食べることができるか……働く私にとっての数少ない楽しみの一つであり、実に大切な問題なのである。そして、テナントに何が入るか分かり始めたのが、つい最近のことだ。

私の期待としては、コンビニ……と言っても何でもよいわけではなく、ファミリマートやローソンの系列ではないものが欲しかった。この二系列のコンビニはすでに近所に複数あるから、どちらかといえば飽和状態である。それ以外では、やはり数百円で食事ができるチェーンの牛丼屋、そば屋、うどん屋、中華屋が欲しかったのである。もっとも半ば観光地となっているみなとみらいでは、そのような庶民的なお店はあまり期待はできないだろうことは覚悟のうえだが。考えてもみれば、横浜のみなとみらいにまでやってきて、お昼にどこでも売っているようなものを食べようとはしないだろう。
続きを読む

十人のうち一人

駅から自宅に向かう階段を上りきったあたりの、ちょうど階段の手すりの向こう側の斜面のところに、なぜかスポンジが落ちている。スポンジと言うからには、本当にどこにでもある一般家庭の台所で使うような、誰もがまっさきに思い浮かべるであろう、あの四角いスポンジなのである。何も特別なものでもない。洗車するのに使う大き目のものが屋外に落ちているのであれば、誰かが落としたのが風で飛んできたのかもしれないと、その来歴もなんとなく想像することもできるが、食器を洗うためのスポンジが落ちているのである。一体誰が何のために、階段脇の斜面に置いたのだろうか。それとも、近所の家の台所の窓から落ちたのが、転がってきたのだろうか。だが、その近辺にそれっぽい家もないし、その説も考えにくいから、もしや、どこかの台所での使役に耐え兼ね、夜中に逃げ出したものの途中で力尽きてしまったのか……謎は深まるばかりだ。

いやいや、たかが落ちているスポンジごときにそんな大げさな物語を考えてもしようがない。誰かがごみに出そうとしたのを落としたとか、きっとつまらない理由だろう。それにしても、最初にそこにスポンジが落ちているのを見つけたのは、半年くらい前のことだろうか。それが今でもそこにあるのだから、それはそれで大したものである。誰かが拾って捨てるわけでもない。そんな小さなスポンジの存在を誰も気にしていないのか。はたまた気付いたとしても、わざわざ処分しようなどと考えないのだろうか。まぁ、気付いて何をするわけでもなく、ただ成り行きを見ていた私も同じように無責任かもしれないが。とはいえ驚くに値するのは、この半年の間どれほどの強風にも飛ばされずに、また大雨が降っても流されずに、同じ場所からわずかにも動いていないということだ。根を下ろすというが、まさしくスポンジに根っこが生えてしまったかのようである。
続きを読む

信仰を増やす

この年齢になってからはあまり重要なことではないだろうけど、身長が増えるのはどちらかと言えば嬉しいことだろう。もっとも、身長よりも収入が増えることの方が正直ありがたい。他には知恵や知識が増えるのも、これも喜ばしいことだ。ゼロは何倍してもゼロなように、そもそもないものは増えないだろうけど、名声も増えたら、幸せになれるかもしれない。とは言っても、名声って何だろう。やっぱり持ってないものなので、よく分からんな。しかし何でもかんでも増えればよいってもんでもない。この世には減った方が望ましいものだってある。まずは体重。これは、はっきり言って減ってもらいたいものである。だけどあれやこれやとどう頑張ってみてもあるところから先は、なかなかに減らないものである。それに支出。日を追うごとに増えて欲しい収入は一向に増えないのに、減って欲しい支出はなぜか増え続けるという不思議。

目で見ることのできるもの、もしくは目で直接見ることができなくとも間接的に計量することができるもの、そういったものは増えても減っても気付くことができる。それゆえに増やしたいと願うこともできるだろうし、反対に減らしたいと思うこともあるだろう。それを達成するためにはどうしたらよいかと考えることもできるだろうし、方法が明確になれば努力することもできるだろう。例えば、体重を減らすとか、貯金を増やすとかは比較的わかりやすい部類かもしれない。もちろん、それを実現させることができるかどうかは、これまた別の問題になってしまうが。
続きを読む

つまずかせない

しばらく前から浴室の蛇口の具合が悪かった。お湯を出すたびに蛇口の付け根のところから、少しずつ水が漏れてしまうようになっていた。最初はわずかだったけど、日を追うごとに漏れがひどくなってきたので、先の連休で時間ができたときに、修理することにした。今のマンションに越したときに蛇口を交換したからもう十数年も経過しているのだから、ゴムパッキンが相当に傷んでいるのだろうと思ってはずしたら、とんでもない!ゴムパッキンどころじゃない!蛇口の根本の、ちょうど配水管との連接部分がすっかりすり減って、半分くらい無くなっているじゃないか。これでは水が漏れても不思議ではない。

そんなわけで、近所のホームセンターに新しい蛇口を買いに行ってきた。水回りをいじるついでに、まだ傷んでいるわけではないが水栓のゴムパッキンも交換しようと、それも一緒に買ってきた。蛇口なんて安いもんだろうと思ったけど、結構するものだ。さておき、帰ってくるなりさっそく水道の元栓を閉めて、蛇口一式、お湯と冷水の水栓のゴムパッキンを交換だ。緩んでいないことを確認して、元栓を開く……我が家の浴室の水道の元栓は玄関の外にあるので、わざわざズボンをはかないといけないので面倒だ。改めて浴室に戻りお湯を出してみるが、蛇口の根本から水が漏れていないことを確認。無事に作業は終わったようだ。だが、しかし、である。二日三日経った頃から、今度は蛇口の先から水がぽたぽたと漏れるようになってしまった。いくら栓を閉めても、止まらない。一週間もしないうちにぽたぽたどころか、途切れることなくちょろちょろと水が漏れるようになってしまった。水栓のパッキンは変えたばかりなのにおかしい。ということで、改めてパッキンを締め直して様子を見ているが、どうやら今度は問題ないようである。それにしても、水栓が少し固いようである。栓そのものを交換した方がよいのかもしれない。そのうち時間を見つけてやるとするか。
続きを読む

永遠のいのちの値段

「お金で幸せを買うことはできない。」(”Money can’t/doesn’t buy happiness.”)ということを耳にすることがある。正直言うと、貧乏人の負け惜しみのように聞こえてしまい、私はあまり好きなではない。それはさておき、この言葉は果たして真実を表しているのだろうか……とは言っても、幸せが何であるかは人によって異なるだろうから、一概に答えることはできないだろう。日本の話ではないが、これについて真面目に研究したところもあるそうだが、残念ながら、これもあまりあてにはならないだろう。これが事実であるという立場からすれば、そのための証拠をあれこれと出してくるだろうし、その反対もまた然りである。議論の内容が漠然とし過ぎているのだ。

ところで、これはあくまでも学説のひとつであって、参考にしかならないだろうが、アメリカの心理学者アブラハム・マズロー博士の提唱する欲求段階説によると、人間の欲求(“needs”)には五段階あるという。欲求と訳されてはいるが、”needs”と原文に書かれているからには、単なる「欲望」ではなく「必要性」という意味合いも含まれているのだろうから、その前提で考えてみる。この五段階であるが、一番低い段階からそれぞれ、生理的欲求(衣食住の確保)、安全の欲求(安定した経済生活、医療の保障、事件事故からの安全策)、社会的欲求(社会的役割の維持、人間関係の確立)、尊重の欲求(他者からの尊敬、自己信頼による自立と自由)、自己実現の欲求(自己の可能性を認識し、最大限に活用できる存在となること)とあるそうだ。それを考えると、金で幸せになることができるかどうかは別として、金があれば五段階のうち自己実現を除いた四段階までは得ることができるだろう。(当然ながら、手元の金を賢く使うための知恵と努力が必要なのは言うまでもないが。)さらに考えると、自己実現の欲求を満たすことができていれば、金を持っていることにさほどの意味を見出さなくなっているかもしれない。もし私がこの言葉の真偽を問われたとしたら、私は「八割までは偽りである」と答えるに違いない。
続きを読む