エルサレムのために泣く

人々に歓迎されながら、イエス・キリストはエルサレムにやってきた。人々が喜びに満たされて大声で神を賛美しながら彼を迎える中、彼は何を思っていただろうか。彼の心はどのように感じていたのだろうか。人々に歓迎されることに喜びを感じていただろうか。ようやくエルサレムにたどり着いたという感慨にふけっていただろうか。彼の顔に浮かんでいたのは笑みだったろうか。彼の口から出たのは、安堵の溜息だったろうか。その時のイエスの様子が、聖書にはこのように書かれている。「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて」(ルカの福音書19章41節)

エルサレムの都より少し高いところにあるオリーブ山から、繁栄を誇り、多くの人々が暮らしている都を眼下に見て、イエス・キリストはその都のために泣いたのだ。イエスのそのような様子を見た人々は、もしかしたら彼が感動して涙を流しているのか、そう思ったかもしれない。しかし今までのことを振り返ると、はたして彼が感動して涙を見せたことがあっただろうか。イエスが前に涙を見せたのは、ラザロが死んだときのことだった。その時の涙は、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じたからではなかったか。(ヨハネの福音書11章33、35節)彼の心を動かすものは喜びなどではなく、むしろ悩みや苦しみや心配と言った、おおよそ好ましくない感情によることの方の方が多いのではないだろうか。
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神殿の主

イエス・キリストがこの地上に住んでいた時、いや、実際にはイエスがこの世界に神のひとり子として誕生する、そのはるか昔から、エルサレムは神殿の都として知られていた。最初に神殿を建てたのはソロモン王であった。それはイエスの誕生をさかのぼること千年ほど前のことだった。ソロモン王の神殿は神の幕屋を模して作られていた。ところで神の幕屋とは、イスラエルの民がモーセに導かれて荒野をさまよっていた頃、神がモーセに命じて作らせたのが始まりであったが、そこはこの地上において、神が存在する場所であった。それほどに神聖な場所ということだ。

それから数百年経て、バビロニア王国が攻めてきたときに一度神殿は破壊されてしまった。しかしながら、やがてペルシアのクロス王によりその再建が認められ、イスラエルの民は再び神殿を建てることができた。旧約聖書にはこのように書かれている。「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」(歴代誌Ⅱ36章23節)それはイスラエルの民に、再び自分たちの国に戻り、神を礼拝する自由が与えられたことでもあり、彼らはもはや外国の捕らわれ人ではないということを意味していた。その知らせを伝えられた人々の様子がこう記録されている。「そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。」(エズラ記1章5節)そして人々が集まり神殿の礎が据えられると「彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、『主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。』と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。」(同3章11節)
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ろばを手放す

我が家の玄関扉が交換されたというのは、前回も言った通りである。さて、玄関扉が新しくなって変わったことはいくつかあるが、そのうちの一つは、錠が二つになったということであろう。最近の家では珍しくないのかもしれないが、錠が一つだけの扉に慣れてしまったせいか、どうも違和感を覚えてしまう。今どきの扉のように、取っ手の上と下にそれぞれ錠がある。外から見れば、鍵穴が二つだし、内側から見ればサムターンが二つである。外から開けたり閉めたりするときは意識しているためか、鍵を二度回さなければならないことを忘れないのだが、内側から開けるときは、なぜか忘れてしまいがちである。朝出掛けるときに、上のサムターンだけ回して取っ手に手を伸ばすのだが、一瞬何か忘れたような気がして、あわてて取っ手の下にあるサムターンを回すという感じである。どうもまだ、連続した動作になっていない。

とは言っても、錠前が二つあるからと言って、それぞれが異なる鍵を持っているわけではない。どちらも同じ鍵が合うようになっている。だったら、そもそもなんで二つもあるのだろうか、と考えてしまう。それぞれが異なる鍵なら二重の防犯対策といわれても分かるのだが、同じ鍵であれば片一方が破られたら、もうひとつも同じようにして破られてしまうではないかと。まぁ、二倍の時間は掛かるかもしれないけど。もしやそれが目的なのだろうか。だったら納得できるのだが。それはさておき、たいした財産はないし、盗まれるようなものなんて何もない我が家であるが、やはり見ず知らずの他人がやってきて、数少ない金目のものを勝手に持ち出されてしまっては困るので、防犯対策は十分にしておいた方が良いに違いない。
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失われた人

今週から私の住むマンションで、各住戸の玄関ドアの交換工事が始まっている。数えてみれば築三十年近く経っており、それなりに経年劣化も進んでいるから、必要なことなのだろう。私の住む三階部分はさほど問題ないのだが、一階部分は地面からの湿気や風雨にさらされることが多いのか、見るも無残な有様だったので、やはり大規模修繕に先立ってドアを交換するのも分かる。だが、私が納得できないのは、ドアのデザインである。今まではいわゆる普通のドアだった。丸いドアノブがあって、真ん中に鍵穴があって、鍵を回して開けて、ノブをくるっと回して引っ張ると開くという、これこそがドアのあるべき姿ではないかと、そう私に思わせるものだった。ところが、これが今どきのドアになってしまった。色もそれまでのオフホワイトからえんじ色になってしまった。ドアの模様も直線と曲線に立体の混ざったレトロな雰囲気から、平面的かつ直線的な単調なものになってしまった。時代も昭和から平成へと変わり、20世紀から21世紀に変わったから、マンション用のドアのあり方も変わったのだろうから、どうしようもないのだろうけど、どうも残念でしかたがない。これだけは、納得できない。新しくなったから、めでたしめでたし、とは言い難い。でも、私ひとりがそう思ったところでどうしようもない。

もとより私は素直な人間ではない。周りが左と言えば右と言い、右と言えば左と言うような感じで、協調性がないというかあまり周囲とは同調しない方である。悪く言えば天邪鬼、良く言えば自主独往というところか。もちろん私は、人々が言うことに何でもかんでも反対するわけではない。納得できることであれば賛同もするし、必要だと思えば従うこともある。人が良いというもので、それが良いと思えば素直にそう言うだろう。
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自由に求める

これが欲しいとか、あれが欲しいとか、私の欲は尽くことがなさそうだ。食欲、睡眠欲、物欲に金銭欲。おおよそ欲という字の付くもので私を形容することができそうである。私から欲を取ってしまったら、いったい後には何が残るだろうか。もしかしたら脂肪くらいは残りそうだが、せいぜいそれくらいだろうか。そう考えてみると、まるで私は欲と脂肪の塊のような存在のように思えてしまう。なんだか潰したら汚そうだし、後の掃除も大変そうだ。さて、そんな私の欲求なんてものはまず満たされることがなく、日々は過ぎていく。何やらもやもやした気持ちで、すっきりしないまま過ごすこともしばしば。しかし、もしかしたら、欲があるゆえに生きていくことができているのではないか、そう思うこともある。もし万が一にも私の欲がすべて満たされてしまうようなことがあったら、もしかしたら私は抜け殻のようになってしまうかもしれない。

それはさておき、祈りの中で神に何かを求めるとする。もちろんどんなことでも求めて構わないと言われても、気が小さいからなのか、それとも信仰心が薄いからなのか、本当にこんなことを求めても良いのだろうかと考えてしまうこともある。自分のわがままな願いを祈るくらいなら、もっと求めるべきものがあるのではないか、そう考えてしまう。たとえば、まだ本当の神を知らぬ人々がイエス・キリストと出会うことができるように、そうやって他人のために祈るのが正しいのではないか、と。確かにそれが正しいことに違いはないだろう。しかしそれだけが正解なのかというと、そうでもないのかもしれない。
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