先見の明
「一年の計は元旦にあり」と言うこともあれば、初夢に験を担いだりもするし、何かというと人々は一年の最初の日に、新たに始まるその年の未来を予測したり期待したりするものである。まだ未知である新しい年に向けて、心の準備をしたいというのが人情というものだろうか。
今日から新しい一年が始まるわけだが、振り返ってみれば、昨年は国内外を通じて様々な出来事に満たされた一年だった。ニュージーランドで地震が起きて、日本人の被害者が出たことに驚いたかと思えば、さほど間をおかずして今度は東日本が大地震に見舞われ、さらには津波の被害を受けたではないか。そればかりか追い打ちをかけられたかのように原発事故まで起きてしまった。そして私たちが震災のことでいっぱいだった時に、太平洋の反対側ではアメリカが大規模な竜巻に見舞われていた。話題になることは自然災害ばかりではない。今までテロとは無縁と思われていた北欧のノルウェーでは爆破および銃乱射のテロが起こったし、アフガニスタンとパキスタンの国境付近では9・11の首謀者が射殺された。その一方で、中東では独裁的権力を奮っていた指導者がその座を追われ、また遠く離れたアジアの地では多くの秘密に包まれた指導者が世を去った。また別の方に目を向けると、ガレージから始めたビジネスを世界でも屈指の巨大企業に成長させ、数多くの発明品を世に送り出した天才的経営者が亡くなった。吹き荒ぶ嵐が過ぎ去ったかのような一年であったわけだが、嵐の後の静けさはまだほど遠いようにも思われる。
それにしても一年前の今日、この一年がどのような年になるかを知ることのできた者は誰ひとりとしていなかったことだろう。昨年起きた事件や事故、人的災害や自然災害のひとつくらいは予測することができたとしても、それらすべてを知り得ることのできた者はおるまい。
それは今日から始まる一年についても同様である。人々はこの一年がどうなるかと様々な予想を立てることだろう。それには期待を込めた楽観的なものもあれば、昨年起こった凶事変事の印象があまりにも強く、不幸は繰り返すとばかりに悲観的なものもあるかもしれない。予想を立てるのは自由であるが、予想は所詮予想でしかない。この一年に何が起きるのかを確実に知りたいのであれば、それこそ待つしかないのである。一日いちにちを過ごして、一つひとつの出来事が明らかになっていくのを黙って見守るしかないのである。
どのような良いことが起きるのかを知るすべもないし、どれほど悪いことに遭遇するのかも、残念ながら分からないのである……などと言ってしまうと、それでは一年の始まりにあたってどのような心構えをしたらよいのと迷ってしまいそうだ。それでも頑張って考えるとすれば、最悪を想定しつつ最善を期待する、という以外に選択肢はないように思われる。投げやりな言い方をしてしまえば、なるようにしかならないということだ。
未来が見通せないとか、先が読めないとか、真っ暗闇に放り出されたかのような状況に置かれてしまうと、私のように諸事適当な人間は例外としても、多くの人々は何とも心細く感じたり、不安を覚えてしまうことがあるかもしれない。しかしながら現実には、人間には明日のことはおろか次の瞬間のことも確実には分からないのである。一寸先は闇、とは誰が言い出したものか定かでないが、まさしくその通りである。だからと言って根拠のない不安にさいなまれても気疲れしてしまうだけだろうし、反対に気楽に考えていた末に物事が思い通りにいかなかったとしたら、余計な不平だの不満を抱いてしまうだけであろう。だからと言って何も考えずに過ごすとしたら、それはそれで残念に思うことがないのはよしとしても、嬉しく感じることもない無味乾燥な日々を送ることになるだろう。
今日から始まる新しい一年、はたしてどのような心構えで迎えたら、心穏やかにいられるのだろうか。先が読めないからどうしようもないではないか……そう思うのであれば、この世においてただひとり先を見通すことのできるお方である神に、自分の気持ちや思いや考えといったものすべてを委ねてみるのもひとつかもしれない。神は本当に先のことをご存じなのかという疑問もあるかもしれない。しかし明日どうなるかも確かなことは分からない人間に頼るよりは、万が一にも明日のことを知っている可能性のある神に頼る方が、得るものはあっても失うものはないのではないだろうか。






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