神殿の主

イエス・キリストがこの地上に住んでいた時、いや、実際にはイエスがこの世界に神のひとり子として誕生する、そのはるか昔から、エルサレムは神殿の都として知られていた。最初に神殿を建てたのはソロモン王であった。それはイエスの誕生をさかのぼること千年ほど前のことだった。ソロモン王の神殿は神の幕屋を模して作られていた。ところで神の幕屋とは、イスラエルの民がモーセに導かれて荒野をさまよっていた頃、神がモーセに命じて作らせたのが始まりであったが、そこはこの地上において、神が存在する場所であった。それほどに神聖な場所ということだ。

それから数百年経て、バビロニア王国が攻めてきたときに一度神殿は破壊されてしまった。しかしながら、やがてペルシアのクロス王によりその再建が認められ、イスラエルの民は再び神殿を建てることができた。旧約聖書にはこのように書かれている。「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」(歴代誌Ⅱ36章23節)それはイスラエルの民に、再び自分たちの国に戻り、神を礼拝する自由が与えられたことでもあり、彼らはもはや外国の捕らわれ人ではないということを意味していた。その知らせを伝えられた人々の様子がこう記録されている。「そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。」(エズラ記1章5節)そして人々が集まり神殿の礎が据えられると「彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、『主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。』と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。」(同3章11節)

これだけでも、イスラエルの民にとって神殿がどれだけ重要な存在であるかを知ることができよう。

そしてイエスの時代に至るまで神殿はエルサレムの中心であり、そしてイスラエルの人々の心の拠り所でもあったろう。とはいえその一方で、時代とともに世俗化されつつあったのも現実だったようだ。ともあれ、神であるイエスはその神殿の住人になることのできる唯一の存在であった。なぜなら神殿は彼のために建てられたものだったからだ。その神殿のあるエルサレムに入るということは、彼にとって大きな意味のあることだったろう。もし、彼がイスラエルの王として君臨するつもりであったとすれば、であるが。しかし、彼はそのようには考えていなかったようだ。

しかし、人々の思いはまた違ったようである。それは人々の行動からも知ることができよう。「イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。 イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。『祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。』」(ルカによる福音19章36~38節)それはまるで王を迎えるかのような大騒ぎだったことだろう。たしかに、王を迎えるということに、間違いはない。イエスはたしかにイスラエルの王なのであるから。但し、多くの人々が期待していたような、また一部の人々が危惧していたような、この地上での王ではなかった。とはいえ、まだこのときは誰ひとりとして、そのようなことを考えてはいなかったようである。

ところでこの騒ぎを見て、「パリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、『先生。お弟子たちをしかってください。』と言った。」(同39節)なぜなのか。なぜ律法学者たちは群衆を叱るようにイエスに言ったのか。彼らはイエスの人気が大きくなることを恐れたのだろうか、律法学者としての権威が危うくなると感じたのだろうか。それとも、イエスはイスラエルの王であるという噂がローマの支配層の耳に入り、なんとか保たれていた調和が崩れることを恐れていたのだろうか。しかし、考えてもみれば彼が福音を伝え奇跡を行うようになってから、律法学者や宗教家たちの権威はすでにイエスの前には何の力も発揮できなかったし、彼の噂はすでにローマ政府の知るところであったろう。

イエスは彼らにこう答えた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(同40節)ところで、石が叫ぶとは、何のことだろうか。この時はまだそれが何であるか誰も分からなかったに違いない。

神殿の主であるイエス・キリストのエルサレム到着により、彼の地上での働きの総仕上げが始まる。

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ