神なき神のすまい

イエス・キリストは情が厚い人だった。彼は喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しむ、そのようなお方だった。神はけして雲の上の高みから人々の営みを眺め、地上の人々がどのように感じているかということに無頓着なお方ではない。神はイエス・キリストというひとりの人として、この地上で人々と共に生活し、人々の喜怒哀楽を分かっているのである。またそのような人々の思いに共感される心の持ち主であった。私などは情が薄く、人がどう感じていようと、それはその人の問題であって私の問題ではないから、と無関心でいるだろう。要するに私にとって人の喜怒哀楽というのは、どうでもよいことなのである。ことさらそれで不便を感じたこともなければ、申し訳ないと考えたこともないので、まぁ、これが私の性格なのだろうと思う。救い主であり神でもあるイエス・キリストが私のような薄情ものでないことは幸いである。

さて、イエス・キリストの情というのは、彼の周りにいる人々に対しての慈しみとか、哀れみとか、そのようなものに端を発していることが多いように思われる。もちろん、彼が情に流されやすいとか、そういう単純なことではないだろう。おそらく彼にとっては、彼自身がどのように感じているかということよりも、周りの人々の思いに心が向いてしまうだけなのかもしれない。自分の思いや感情を抑えているというわけでもないだろうが、どちらかと言えば他人の気持ちに共感すること、他人の思いを知ろうとすることを大事にしていたのだろう。

ところが、そのようなイエスが珍しいことに、他人に同情するでもなく、また共感するでもなく、自分自身の感情をあらわにしたことがあった。しかし残念なことに、それは喜びという、周囲を明るくしたり励ましたりするようなものではなかった。また、悲しみという、ある意味では人の気持ちを沈ませてしまうかもしれないが、その一方で人に物事を考えさせる機会を与えるようなものでもなかった。イエスがあらわした彼自身の感情とは、果たして何であったかというと、それは怒りであった。

今までのイエス・キリストや弟子たちと、彼らを敵視していた律法学者や宗教家たちの間には、多かれ少なかれ何らかのいざこざがあったのは確かである。イエスは彼らを叱ったり、皮肉を言ったり、過ちを指摘したりすることはあったが、感情を露わにして彼らに怒るようなことはなかった。だが今回ばかりは、イエスの怒りの沸点を超えてしまうようなことが起きたのだ。そして意外なことに、イエスの怒りが向けられた先は、彼の敵対勢力でもなかった。

ルカの福音書にはこのような出来事が記録されている。「宮にはいられたイエスは、商売人たちを追い出し始め」(ルカの福音書19章45節)た。また同じことを別の福音書の著者はこのように記している。「イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。」(マルコによる福音書11章15~16節)

まさしくイエスは怒りを爆発させたようだ。今まで律法学者たちとやりあうときも、それはあくまでも言葉のやり取りでしかなかった。だが、今回ばかりは今までとは違う。なんと、彼は実力行使に出たのだった。とは言ってもさすがに、人に向かって手を上げたわけではないが。

しかし彼は「商売人たちを追い出し」て「両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し」たのである。想像するに、怒っている人が、黙って人を追いかけたり、物を壊したりはしないだろう。おそらくイエスも怒鳴り散らしながら、商売人たちを宮殿から追い出し、両手で両替人の台を掴んで力任せにひっくり返して、いけにえとするべき動物を売っていた人たちの椅子を蹴っ飛ばしていたのだろう。福音書に今まで書かれてきたイエスの様子とはずいぶん違うではないか。彼に従っていた人たちも、驚いたに違いない。ここには彼らのことは何とも書かれていないから、本当のことは分からないが、おそらく遠巻きに見ていただけだろう。まさしく、弟子たちの目から見ても、手を付けられない状態だったのかもしれない。

何がイエスをこれほどまでに怒らせたのだろうか。その理由はイエスのこのことばに見出すことができる。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」(ルカによる福音書19章46節)

神殿とは、神の住まいである。すなわち神がそこに存在しており、そこに人々はやってきて神と和解するために、いけにえを捧げるのだ。神殿とは、人々にとっては罪を赦され、神との関係を修復するための場所であった。しかし、年月の経過とともに、それは世俗化されてしまい、今では商売する者たちまで出てくるようになった。人々、いや時代の流れは神を神殿から追い出してしまったのである。人々の和解のための神殿という、神の思いやりを、人々は無にしたのである。一体誰のための、何のための神殿なのかと、イエスは言いたかったのだろう。

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