つまずきの石

律法学者や祭司長などの指導者たちとの対立の後、イエス・キリストは人々にあるたとえ話をされた。その場に集っていた人々に向かって話をしたということは、当然ながらイエスとの議論に決着をつけることができずに不満に思っていた指導者たちも、まだそこにいたに違いない。イエスの話されたたとえはこうであった。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」(ルカの福音書20章9~16節)

そしてイエスの話を聞いて、人々はこう言った。「そんなことがあってはなりません。」(同16節)

しかしながら人々の返したこの言葉を読んで、ふと思うのである。はたして彼らは何に対して「そんなことがあってはいけない」と言ったのであろうか。農夫たちがぶどう園の主人の息子を殺してしまったことだろうか。それとも、ぶどう園の主人が農夫たちを殺してしまったことだろうか。今日のモラルから考えてみるとどうだろうか。複数の農夫がひとりの人間を殺したということは、見方によっては単純なリンチによる殺人事件として片付けられてしまっても仕方がないだろう。一方、ひとりの人間が複数の農夫たちを殺したというのは、殺人事件というよりは殺戮であろう。それぞれの結末に至った経緯と、両者の立場を考えないで、つまり可能な限り公平に見るとすれば、より多くの血を流したぶどう園の主人の方が重罪であるという判決に達することができるかもしれない。では、イエスの話を聞いた群衆も同じような意見だったろうか。彼らが何を思って、「そんなことがあってはならない」と声を上げたのか、残念ながら答えは書かれていないのでわからない。

もし人々が、このたとえの真意に気づいていたのであれば、彼らはぶどう園の主人の息子を殺した農夫たちを非難したに違いない。だが、はたして群衆のどれほどが、イエスのことばを正しく理解できていただろうか。

さらにイエスはこう話を続けている。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」(同17~18節)

ところがイエスが語るのを聞いた人々のうち、彼の言っていることを理解できた人々がいたという。「律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいた」(同19節)なんという皮肉なことだろうか。イエスに従っていた人々ではなく、彼に敵対していた人々の方がイエスの言っていることの意味を知ったのであるから。たとえ信仰はなくとも、イエスの言わんとしていることを察するだけの、知恵や知識は持ち合わせていたのである。

おそらく彼らは分かっていた。ぶどう園の主人とは神であり、彼が送りだした息子とは、イエス・キリストであろうということに。そして、息子を狙っている農夫たちというのが、すなわち彼ら自身であろうということにも。もちろん、認めたくはなかっただろうし、気付かないふりを通したかったかもしれないが、自らを欺くことはできなかった。指導者たちは、イエスが彼らを批判していることが分かっていた。

さらにイエスは彼らの敵意が、彼ら自身を滅ぼすことにつながるとも警告している。神の御国を建て上げるための礎となるイエスにつまずくのであれば、それは彼らの破滅となり、またその怒りが彼らの上に落ちたら、やはりそれは彼らを滅ぼすことにつながる。しかし、これらのことに気付いておりながらも、彼らは自らの考えや行いを省みることもなければ、自らの犯してきた、またこれから犯そうとしている過ちについて悔いることもなかった。それどころか、イエスに対する敵意を強めるばかりだったのだ。

ところでもし、群衆のうちに指導者たちと同じ理解をしている人々がいたら、彼らの「そんなことがあってはならない」というのは、神のひとり子である、イエス・キリストを死なせてならない、という思いからだったろう。同じことばを聞いてどう思うかは、やはり聞き手の心のあり方によるのだろう。

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ