荒野でのこと

日本海を見に行く、というのが昨年の私の目標であった。残念ながら、達成することができないまま新しい年を迎えてしまった。なぜ日本海を見に行くという目標にしたのか……正直に言えば特別な理由など何もない。単純に、今まで日本海を見たことがないからという、ただそれだけである。仕事が落ち着いたら、お金に余裕ができたら、などと考えていたが、現実はそれほど甘くはなかったのである。日本海どころか、昨年の暮れには、県内に一ミリたりとも海岸線がない栃木県に長期出張という、まったく想像すらしていなかった目に遭ってしまった。仕方がないと言えば、仕方がない。ちなみに、数年前に体重を減らすという目標を立てていたこともあったが、昨年はそれを達成することはできた。もちろん、体重を減らすというのは、とうに諦めていたというか、どうでもよくなっていたので、あえてそれを年間の目標にしようなどとは思わなかったのだが。不思議と、目標に挙げることをやめたら、達成できてしまった。一年の計は元旦にあり、と言うが、さて今年の目標は何にしたものか。

ところで今年こそは何をしようかとか、何ができようかとか、そんなことを考えたとしても、一年365日という限られた時間の中で何かを成し遂げるというのは、なかなか容易なことではないようにも思えてくる。それとも、私の努力が足りないだけなのだろうか。何かをしようと決めても、結局は何もしないかもしれないことへの、ただの言い訳なのだろうか。そんな一年のことで悶々としているとき、ふと思い出したことがある。遠い昔、荒野を四十年間さまよったイスラエルの民がいたということを。

四十年と言えば、人の一生というほど長くはないが、それでも人の半生くらいであろうことを思うと、相当な長さである。もし私が今からモーセやその他大勢のイスラエルの民と共にエジプトから約束の地へと向けて旅に出るとすれば、たどり着く頃には私は八十半ばになっていることだろう。生きていれば相当なジジイになっているはずだ。また見方を変えてみると、今私が約束の地に着いたとすれば、私がエジプトを出発したのは幼い頃のことであり、エジプトでの生活のことは全く記憶に残っていないに違いない。四十年というのは、それほどの長さなのである。

ではイスラエルの民がエジプトを出発した時、神は人々のために何をなされたのか。

「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。」(出エジプト記13章21~22節)神は民を導くために、彼らの前に立ち、先に進んで行かれた。それも昼夜問わず、彼らの目につくように。

「モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。……モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主はエジプト人を海の真中に投げ込まれた。」(同14章21~22、27節)神は迫るエジプトの軍勢から民を救いだし、その一方で彼らの敵を打ち破ったのだ。

「モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。」(同15章25節)「主はモーセに仰せられた。『見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。……』」(同16章4節)神は人々の必要を常に満たすようにしたのである。

すなわち神は、常にイスラエルの民のそばにおられ、彼らにとって善となるように働かれていたのである。

しかし現実は厳しかった。長きにわたり安住の地を見出すことなく、約束の地に導かれることを信じて荒野をさまよい続けるのである。神の約束を信じて旅に出たとしても、途中で神を疑ってしまうことがあったとしても不思議ではない。奴隷とはいえ、衣食住に困らなかったエジプトでの生活が懐かしくなったとしても当然であろう。火の柱、雲の柱が立ち、海から水がひき、地から飲み水が湧き、天から食べ物が降り……神の奇跡の数々を目の当りにしながらも、彼らのうちに反抗心、不信仰が生じてしまった。その結果、彼らは最終的に四十年もさまよい続けることになったのだ。だがそれでも、イスラエルの民は最後には安淳の地へと導かれたのだ。時間は掛かったが、神の約束は実現したのだ。

今日より始まる新しいこの一年、何を目指して進むか。火の柱も雲の柱も、今となっては見ることもないが、神はご自身の民のためにすべてをもって、善となしてくださるお方であることに変わりはない。神がイスラエルの民に寄り添ったように、神は私たちのそばにおられるのだ。

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