この人を除け

ここ数年ほど、私の本を読むと言えばもっぱら歴史物や時代物ばかりである。どうやら私はあるジャンルの本を読んで気に入ってしまうと、ずっと同じような本ばかりを読んでしまうらしい。それも何年にも渡って読み続けてしまう。そんな私が中学生くらいの頃によく読んでいたのはSF物だった。今でもたまに、ふと読んでみようかと思うこともあるが、やはり時代物に手が伸びてしまう。一通り自身を満足させることができたら、またSFでも読んでみようか。

ところで英国の著名なSF作家、アーサー・C・クラークの書いたものに「幼年期の終わり」という作品がある。TVドラマ化されたものを、少し前にケーブルテレビで放映していたので、ちょっと懐かしくなって見てしまった。さて、あらすじの一部だけを紹介すると、物語は20世紀の最後から始まる。紛争などで人類が自らを破滅の道へと追い込んでいる時、宇宙人がやってきて人類を救うというものであるが、とある事情から、50年間は姿を現さずに特定の人間を通じてのみ、間接的に人類に介入するというものである。彼らは実質的な人類の管理者となり、彼らの指導のもと人々の生活は向上し、あたかもユートピアで生活をしているかのごとくであった。やがて50年が経過し、宇宙人が人間たちに姿を現すことになったのだが、その姿は人々を驚かせるものだった。地上に降り立った宇宙人の代表者は、頭には小さな角が生え、背中には革のように丈夫でしなやかそうな翼に、棘の生えた尻尾がある。そして人類の倍はある体を支えている足は、獣の蹄のように割れている。まさしく中世絵画に描かれている悪魔の姿そのものだった。というのが、前半部分である。物語はさらに続くわけだが、SFが好きであれば読んでみることをお勧めする。

それはさておき、もし悪魔がそのようなおどろおどろしい姿をしていたら、人はその存在に恐れや嫌悪感を覚えて、すぐにも逃げ出してしまうに違いない。人を騙し、神から引き離そうと画策している存在が、そのような「いかにも悪いんだぞ」という姿をしていたら、目的を達成できないはずだ。だから悪魔は光の御使いに変装すると聖書(第二コリント11章14節)にも書かれているように、もっと人々に受け入れられやすい姿をとるだろう。まさしく偽りと欺きの存在であると言えよう。

さてルカの福音書に話を戻そう。捕らえられたイエス・キリストは総督ピラトのもとに連れてこられたが、ユダヤ人指導者たちの訴えに値するような罪は何も見出せなかったために、ピラトは彼を釈放しようと考えていた。ところが彼を訴えた人々はこれに強く反発をした。「しかし彼らは、声をそろえて叫んだ。『この人を除け。バラバを釈放しろ。』バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢にはいっていた者である。ピラトは、イエスを釈放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。しかし、彼らは叫び続けて、『十字架だ。十字架につけろ。』と言った。」(ルカの福音書23章18〜21節)

ローマ人であるピラトにしてみれば、これは理解できない状況であったろう。片やユダヤ人の王を自称している人物であり、片や暴動を起こした殺人者である。王を自称したところで罪には定められないが、殺人は明白な犯罪である。どう考えても、前者を釈放することに問題はないが、後者を放すことはローマ政府にとってもユダヤ人たちにとって何の利益もないどころか、むしろ余計な問題を増やすことになりかねない。にも関わらず、ユダヤ人たちはバラバの釈放を求めたのである。もはやイエスに対する憎しみだけしかなかったかのようだ。話せば分かる、とかそういった次元ではない。盲目的であり感情的であり、かつ一方的なイエスに対する敵意しかない。そこには理性の立ち入る隙はどこにもなかった。ローマから派遣された実質的な最高権威者である総督ピラトが言って聞かせても、またユダヤ人たちの領主であるヘロデの名を出しても、彼らは聞く耳を持たなかった。イエス・キリストの何が問題であるのか、もはやユダヤ人指導者たちと彼らに従う群衆にとってもは、どうでもよかったかのようであり、ことここに至っては、彼らの目的はただひとつ、イエス・キリストを殺させるということだけであったようだ。

かなり前から、彼らがイエスを憎んでいたのは確かなことである。だがこれまではイエスと議論をするなど、その目的は間違っていたにせよ、それでもまだ「イエスにはかなわない」と考えるだけの理性は残されていた。何も彼らの肩を持つわけではないが、まだ彼らに同情の余地はあったろう。彼らにも悔い改めるだけの機会は残されていたはずだ。

だが、今回は違った。まるで理性の最後の一片を失ってしまったかのようだ。感情だけに訴えては、むしろ律法や伝統を重んずるという彼ら自身の立場さえも否定しているかのようである。個人的には悪魔の働きを過大に認めたくはないが、今回に限って言えば、悪魔が働いたのではないかと疑ってしまいたくなる。

人とは残念なもので、憎しみに身を委ねてしまうことで、自分が正しいと信じ、それが自分の価値だと思い込んでしまい、そこに居心地の良さを見出してしまうのではないだろうか。しかし、そうすることは同時に人の理性を曇らせてしまうことにもなってしまう。そうなった人の心に、悪魔は付け入る隙を見つけてしまうかもしれない。直接手を出せない悪魔は、そのような人々をして「この人を除け」と言わせたのだろう。

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