クレネ人シモン

ふと気づいてみれば、私が信仰を持つに至ってから20年以上の月日が経った。私の記憶が正しければ、私が信仰を持ったのは二十歳の夏だから、もうすぐ四半世紀になろうか。我ながら、一度も信仰を離れずによくもここまで来れたものだと感心してしまう。とはいえ、必ずしも熱心であったとは言えないが、まぁ、そうだとしても続いているのだから、そこはよしとしよう。あの頃を振り返ってみると、私が信仰を持つきっかけになったのは、何か特別なことがあったというわけでもない。神の奇跡を見たわけでもないし、神の声を聞いたわけでもなければ、神の愛を感じたわけでもない。散々にあれやこれやと考えた末、キリストを信じた方が自分にとって得になるという結論に達したからである。何が得かと言えば、天地万物を創造されたほどの大きな力を持つ神に敵対するのではなく、そのような神の側に立つことができるということ、そして地獄ではなく天国に行くことができるということ。それくらいである。要するに、滅びではなく繁栄を選んだだけである。

「天国に行くには神を信じるしかないのか?」もしかしたら人はそのように聞くかもしれない。本当のところがどうなのか、正解は私には分からない。分からないが、少なくとも私はそうであると信じている。では、もし私が不正解だとして、他にも天国に行くための道があるとしたら、どうだろうか。それでも私は、私が今信じていることに後悔はしない。例えばであるが、神を信じなくとも、善行を積めば天国に行くことができるとしたらどうだろうか。とてもじゃないが、私には無理なことである。なんせ根が善人ではない私が善ばかりを行うなんて、できるわけがない。私のような人間にできるのは、神を信じるくらいである。自らの行いで天国への切符を手に入れられるほど、私は完璧ではない。

「なぜ会ったこともないイエス・キリストを信じるのか?」そのように聞いてくる人もいるかもしれない。たしかに、私はキリストの声を聞いたこともなければ、姿を見たこともない。ましてや会って話したことなどあるわけがない。もし普段のように道を歩いていて、突然見ず知らずの人に「私はキリストです」と言われたら、「何言ってんだ、コイツ。頭おかしいんじゃねぇか」と思って、無視して通り過ぎるに違いない。イエスに会ったことがないのに、なぜその人がイエスじゃないと言い切ることができるのか、もっともな質問である。しかし簡単に言ってしまえば、それはイエスらしくないからである。そもそもイエスは人を惑わすようなことはされないお方である。

なるほど、まだ見たことのないイエスを信じるということ、これが信仰というものなのだろうか。実際、聖書にはこのように書いてある。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル人への手紙11章1節)

もしかしたら人はこう言うかもしれない。「直接イエスに出会ったら信じよう。」たしかに、もっともらしい言い分だ。見たことのないイエスを信じるのは難しいかもしれないから、実際に会うことができたら信じることができるかもしれない。だが、本当にそうだろうか。イエスに出会い、言葉を交わした人々がことごとく彼を信じたであろうか。むしろ、現実はその反対ではなかったか。イエスを妬んだり、また彼の存在を危険視した律法学者や祭司たちは、彼を信じるどころか、反対に彼を憎んだではないか。イエスと議論をした末に、彼らはどのようにイエスを陥れることができるかと考えていたではないか。イエスと会うことは、必ずしも彼を信じるということにはつながらないだろう。それどころか、イエスに会うことで、彼に対する憎しみが増すこともあるかもしれない。それくらいならば、まだ出会わない方がよいであろう。

さてルカの福音に話を戻すが、ここにも一人、イエスと出会った人物がいた。イエスが刑場へ連れて行かれるときのことであった。「彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。」(ルカの福音書23章26節)

クレネ人シモンは、ここでしか登場しない。たまたまその場に居合わせたというだけで、半ば無理矢理にイエス・キリストが十字架を運ぶのを手伝わさせられたのである。きっとシモンは迷惑に思ったに違いない。十字架とは死刑の道具であり、それを運ぶのは罪を負った者のすべきことであった。なぜ関係のない自分がやらねばらないのか、縁起でもないことだ、そのように考えたとしてもシモンを責めることはできないだろう。断りたくても断れない状況であり、不承不承手伝ったことだろう。

この後、クレネ人のシモンがどうなったのかは分からない。彼が聖書に出てくるのは、ここが最初で最後である。とんでもないことに巻き込まれたとイエスを後々までも恨んだだろうか。それとも自らに定められた運命を受け入れたイエスの姿に心を動かされただろうか。いずれにせよ想像の範囲を出ることはない。しかしながら一説によると、彼の息子は宣教師になったともいわれている。もし本当にそうだとしたら、シモンはこの時のことでイエスを信じるようになったのかもしれない。

大切なことは、イエスに会ったかどうかではなく、会っても会ってなくても、彼を神のひとり子、救い主として信じるかどうかである。

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