ある議員の期待したもの

夏になるといつも気になることがある。今まで四十数年間生きてきて、今でもその答えを私は知らない。真剣に考えたことがなかったし、真面目に知ろうとしなかったからかもしれない。普段は気にしないで過ごしているが、ふとしたことで思い出すと、気になってしかたがない。もしかしたら人に言わせれば、そんなことも知らないのかと呆れられてしまうかもしれない。しかし私にはいつまで経っても分からないのだ。もしかしたら、誰かに教えてもらったことがあったかもしれないし、自分で調べてみたことがあったかもしれないが、なぜか私の記憶にはまったく留まらないようである。それほどに私を悩ませているものとは、一体何なのか。それは「そうめん」と「ひやむぎ」の違いである。

さすがに「うどん」と「きしめん」の違いは分かる。だが、白くて細くてツルツルしている同じような姿の、そうめんとひやむぎは何が違うのか。「今日の昼食はそうめん」と言われて出されれば「あぁ、そうめんなんだ」と思って食べるし「今日はひやむぎ」と言われたら「ふーん、ひやむぎなんだ」と何の疑問も持たずに食べるだろう。違いが私には分からないのだから。きっと「今日はそうめん!」と言われて、ひやむぎを出されても「違うじゃん、今日はひやむぎじゃん!」とは言えない。いずれにしても、暑い時期に食べるにはおいしいから、なおのこと違いなどはどうでもよくなってくるのだろうか。ちなみに、私は蕎麦の方が好きである。「冷やし蕎麦が食べたい」と言って、白くて細いの(に限らずとも、白くて太いのでも同じことだけど)が出されようものなら、間違いなくがっかりする。ちなみに黄色い麺も好きだけど、これはちょっと系統が違うか。この時期だと、太めの麺を氷で締めて、アツアツの煮干し出汁の濃厚豚骨スープに……あー、いかんいかん、そんなことを考えていると、夜中だというのにだんだんと腹が減ってくるじゃないか。

それにしても、そうめんとひやむぎの違いくらいなら、たいしたことではないだろうが、神からの御ことばである聖書に書かれていること、そこに書かれているイエス・キリストの語られたことについては、正しく知ることが望ましいだろう。勘違い、無関心、無知は大きな損失をもたらすだろう。前回も見たように、ローマ人の百人隊長のようにイエスを間近で見て、その時の様子から彼が神のひとり子であることを直感として感じられる人もいるだろうが、誰もがそのように勘付くことはできないだろう。

さて、イエスを敵視していたのは主に地位のある人々であった。というのも、イエスの登場によって彼らの立場が危うくなりそうであったからだ。だが地位のある者たちすべてがイエスを憎んでいたわけでもなかった。ルカの福音書にはあるひとりの議員のことが、こう書かれている。「さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。」(ルカの福音書23章50〜51節)

彼は他の議員たちが律法学者や祭司たちと結託して、イエス・キリストをどのように陥れようかとしている様子を見ていたが、彼らに同調することはなかった。いつの時代も、どこの場所でも同じことかもしれないが、多数派に調子を合わせるのは簡単なことである。多数と一緒に行動すれば、自分で考える必要がないので色々と楽をすることができるだろう。そうやって楽をすることの引き換えに、人は自分で考えることがなく周りの考えや一部の意思に従うだけの、つまらない存在になってしまうだろう。また多数派にまわれば敵を作らなくて済むだろう。人から恨まれることもなければ、いざとなれば周りの誰かが自分を守ってくれるかもしれない。それどころかちょっとした才覚があれば多くの味方を作り、自らを中心とした世界を作ることもできるかもしれない。

誰かが右を向けと言えば、何も考えずに右を向くだけの存在、もしくは自分が左と言えば周りを左に向かせることのできる才能。そこには自分の都合だけしかない。どちらにしても、自己中心の現れであろう。

ヨセフという名の議員は、周囲の関係者の多くがそのような自分大事の保身に向かうなかで、その流れに乗らずに「神の国を待ち望んでいた」のである。彼の視線の先には自らの名誉や繁栄ではなく、神の国の到来があったに違いない。神の国の訪れへの期待があったゆえに、彼は道を誤ることがなかったのだろう。

イエスが十字架で死んだ後、彼のもっとも身近であったはずの弟子たちですら、どこかへ隠れてしまったというときに「この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。」(同52〜53節)

ヨセフはユダヤ人が守るべき律法や伝統が何であるかを十分に知っていたであろう。しかし彼は律法を守ることよりも、イエスが教えてきたことの方が大切であると見極めたのである。神の国の訪れを信じていた彼はイエスが死んだその後も、イエスのそばに居続けたのである。ここにはこれ以上のことは書かれていないが、神は必ずやヨセフの信仰と行いに目を留めたであろう。

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