求めていたもの、必要なもの

先日、私の誕生日であった。人生百年であればまだ半分以上は残っている。もし90年であれば、折り返し地点はすでに過ぎている。さて残りの人生どれほど残っているのかは分からないが、なんだか長生きしてしまいそうな気がしなくもない。あまり長生きもしたくはないのだけれど。まぁ、こればっかりは神が何と考えておられるか分からない。まさしく天の御心のままにと、神に委ねるしかない。

それはさておき、さすがにこの年齢になると誕生日だからといって、プレゼントをもらえることもない。そんなわけで誕生日プレゼントというものが欲しければ、自分で買うしかないのである。ということで、何を買おうかと考えてはみるのだが、欲しいものがありすぎて困ってしまう。まったく物欲の深さに我ながら呆れてしまう。ここしばらく控えていた車の部品を交換しようか、それとも変わり映えのないコレクションに加えるべく腕時計を買おうか、はたまた妻が買い換えたのに合わせてスマホを買い換えようか、いや、やっぱりここは最近の私が最も熱意を感じていることを考えると、ウォーキング用の靴を買おうか……と悩んでしまう。とは考えてみるものの、いざ自分で買うとなると、予算の制限が出てくるので欲しいものと買えるものを見極めなくてはならない。自制心がどれだけ保てるのか、まさしく葛藤である、自分自身との戦いである。まぁ、冷静になって考えてみれば、週末にしか乗らない車にお金をかけるぐらいならば、次に車を買い替えるために今は我慢した方がいいのかもしれないとか、腕時計のベルトだけを変えれば気分転換にもなるのではないかとか、自力でバッテリーを交換しただけに愛着のあるスマホを変えるのはもったいないとか、靴は必要なものだから都度必要になったら買えばいいじゃないかとか、なんとか今のところは落ち着いている。とは言うものの、ヤフオクのウォッチリストにまだ車のパーツと腕時計が登録されているので、完全に物欲が収まったわけではないようだ。

人が欲しいと思っているもの、また人が求めているものが、本当にその人にとって必要なものであるか、という疑問は常に人を悩ませるものだろう。人というのは自分のことばかりを見てしまうもので、自分が欲しいものを自分が必要なものであると、自分自身に思い込ませてしまうことがあるのではないだろうか。そうだとすれば、冷静な第三者によって何が必要であるかを示されることもあるかもしれない。

さてそれはさておき聖書に話を戻そう。イエスが墓に葬られた後のことが、ルカの福音書にはこのように記されている。「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。』」(ルカの福音書24章1〜6節)

イエスが埋葬されたことを知った女性たちは、埋葬されたイエスの遺骸に香料を添えようと墓までやってきた。彼女たちが求めていたのは、彼女たちが慕っていたイエスの亡骸であったのだろう。イエスが十字架の上で死に、その後に墓に埋葬されるのを見届けた彼女たちは、イエスの死を悲しんでいたに違いない。せめて最後の奉仕とばかりに、彼女たちは墓までやってきて、イエスの埋葬を仕上げようと考えたのだろう。彼女たちは何を求めていたのか。それは、イエスの死んだ体であった。それが彼女たちの本心から望んだものかどうかは私には分からないが、少なくとも彼女たちの行ないから察するに、埋葬の対象としてのイエスを求めてきたのだろう。でなければ、そうそも香料など必要ないからだ。だが彼女たちに必要なのは、死んだイエスであったろうか。死んでしまった神のひとり子に、何の救いを求めることができるだろうか。すでに息をしていない死体に奇跡を起こすことができるか、神の御国について語ることができるか。そんなのは無理な話である。

さて彼女たちが墓にやってくると、そこにイエスの亡骸はなかった。その理由は、墓の中にいた人たちのこのことばにある。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」

彼女たちが持ってきた香料で処理すべきイエスの体はなかった。というのも、イエスは生きていたからだ。当たり前のことだが、生きているイエスに防腐のための香料は必要ない。そもそも彼女たちに必要なのはイエスの亡骸でもなければ、彼にまつわる思い出話ではなかった。彼女たちに、そして後に残された弟子たちに必要だったのは、よみがえられて生きているイエス・キリストなのだから。イエスが死を克服し、よみがえり、永遠のいのちを得ることで、彼を信じる人々もまた永遠のいのちを得ることができるようになったのだ。であればこそ、知識としての「聖書に出てくるイエスという人物」を求めるだけではまだ足りないということになるだろう。人にとって本当に必要なのは今も生きているイエスとの、これからも続く生きた関係なのである。

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