帰ってきたペテロ

何が大変かと言えば、毎度のことだが、「これ」の書き出しをどうするかということだ……。いきなり本題、つまりは聖書の話から入ることもできるのだが、そうすると真面目になり過ぎてしまうような気もするし、いかにもな雰囲気にになってしまいそうで、どちらにしてもかたくるしいものと思われてしまい、そうなると興味を持ってもらえないのではないか、つまり読んでもらえないのではないか、などと考えてしまうのである。そういえば牧師さんも礼拝のメッセージの前にジョークなり、小話を語ったりするものだが、なんとなくそうする牧師さんの気持ちも分からなくもない。わざわざ最初から敷居を高くしてしまうこともないだろう。むしろ敷居を低くしておいて、話の聞き手なり読み手なりの注意を引き付けておきたいものである。本題で伝えたい肝心なところにたどり着く前に、相手の興味が失われしまっては元も子もないというものだろう。

それにしても、毎回ネタを考えるのは難しい。毎日の生活の中での思ったことや気付いたこと、見たことや聞いたことから、これぞというものを探そうとするのだけれども、いざ書こうとすると何も思い浮かばないこともある。さすがに、手持ちのネタも底を尽いている今日この頃である。頑張って何とか捻り出そうと苦労しているのだ。今さらだが、気になったことをその都度書き留めておけば、後から役に立てることができそうなことは分かっているのだが、実際はそうするわけでもない。私の問題は、せっかく思いついた物事を忘れてしまうということもさることながら、いや、もしかしたらそれよりも根が深いのは、忘れてしまう自分に気付かないことだろう。「良いこと思いついた!次はこのネタを使おう!」とその時は妙な自信たっぷりなのだが、後から「ありゃ、何だったかな?」となってしまうのである。

さて、聖書に話を戻そう。自信を持つことは悪いことではないけど、残念ながら人は完璧な存在ではない。自分は大丈夫、と思っていても、実はそうではないことは多い。私も然り。イエスの弟子の一人、ペテロもそうだった。イエスを裏切るようなことはしないとしないと言っておきながら、一日も経たないうちに三度までもイエスを否定したというのは、前にも見たとおりである。

自らの失敗に気付いたペテロは、その後どうしたのだろうか。ペテロは泣きながら出て行ってしまった。しかしイエスがピラトの前に連れて行かれた時にも、群衆に謀反人バラバとイエスのどちらを釈放するか問われた時にも、イエスが十字架につけられた時にも、ペテロがどうしていたのかについては聖書に記録されていない。私の想像でしかないが、ペテロは大祭司の家から逃げ出してから、人目を避けて、誰にも見つからないような場所へ行っていたのかもしれない。だがいつまでも隠れているわけにもいかなかっただろう。どこか物陰から見ていたのか、それとも人づてに聞いたのか、イエスが埋葬されたことを知り、ようやくイエスが死んだという事実を受け入れて、他の弟子たちのところに帰ってきたのかもしれない。

ところが、そんなペテロのもとに伝えられたのは、イエスがよみがえられたということだった。聖書にはこう書かれている。「そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」(ルカの福音書24章9〜11節)

ところが弟子たちはこの話を信じなかった。動揺した女たちが見間違えたのだろうと思ったのだろうか。人は死んだら終わりだと考えていたからだろうか。イエスは死んだラザロをよみがえらせたが、そんなイエス自身が死んでしまっては、さすがに駄目だろうと諦めていたのか。しかし、ペテロだけは違った。「しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。」(同12節)

なぜペテロだけが墓を見に行ったのか。イエスのよみがえりを信じていたのか。いや、そうではないだろう。信じていたのなら、女たちの言葉を素直に受け入れたに違いない。信じていなかったからこそ、自分の目で見ようと思ったのかもしれない。しかし、それ以上に彼には後悔があったのだろう。イエスを裏切り、三度までも否定してしまったという自責の念があったとしても不思議ではない。もし、本当にイエスがよみがえったのであれば、イエスに謝ろうとしたのかもしれない。今一度イエスから赦しを得て、改めてイエスの弟子として生きようと願ったのかもしれない。ここでは墓が空であることに驚いて帰ったとしか書かれていないが、本人の気持ちとしてはそれどころではなかったかもしれない。イエスがよみがえったという驚きばかりでなく、やり直す機会を得られたという安心もあっただろう。裏切り者としてイエスとの関係を終えるのではなく、赦された者としてイエスとの関係を続けていけるという喜びがあったのだろう。

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