見ても気付かず

私にとって至福の時間とは何であろうか。何をしている時に、私の身も心も平安に満たされるだろうか。やはり信仰者として、ここは「聖書を読んでいるとき」とか「礼拝をしているとき」とか答えるべきなのかもしれないが、実際は違う。もっと現実的というか、五感すなわち肉体で感じることのできるものが、私を満足させるのである。例えば、おいしいものを食べている時とか。それ以外では何があるかなぁと考えてみると、いや、何が気持ち良いかって、やはり背中を掻いてもらうことだろう。もしくは、自分で孫の手を使って掻くのでも十分に幸せを感じることができる。私がまだ子供だった頃からの癖というか、好みというか、今でも変わらないことのひとつと言えよう。きっと歳を取って死ぬまで、これは変わらないだろう。

いや、誤解されるといけないから念のために言わせてもらうが、毎日必ずとは言わないまでも、風呂に入るときには背中も洗うようにしているから、垢が積もって痒みがあるというわけでもない。痒いから掻いてもらったり、掻いたりするのではなく、ただ気持ちが良いからという、ただそれだけの理由だ。さて先日背中に手を伸ばしてみたら(ついでに言うと、誰にも掻いてもらえず、孫の手も手近になければ、仕方がないので手を背中に回して自分で掻くこともある……もちろん範囲は狭まってしまうのだが、何もしないよりはマシである)掻き過ぎてしまったのだろうか、引っ掻いた跡のようにカサブタができているではないか。灯台下暗し、ではないけれども、自分の背中というのは、直接見ることができないだけに、どうなっているのか気付かないものである。

人と言うのは目で見えることに囚われてしまい易いものなのだろう。裏を返せば、見えないことには、いつまで経っても気付かないものなのだろう。ルカの福音書には、ある二人の弟子のことが、このように書かれている。「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」(ルカの福音書24章13〜16節)

この二人は何をしていたか。エルサレムからエマオという村へ出掛けるところであった。11キロであるから、さほどの距離ではない。私がウォーキングで歩く距離と同じくらいか、それよりもちょっと少ないくらいである。ほんの所用で出掛けるという程度だったのだろう。彼らはもっぱら話し合ったり、論じ合ったりして道中を過ごしていた。

二人が話に夢中になっていると、どこからかひとりの人がやってきて、彼らと一緒に歩いていた。二人にしてみれば、たまたま行く方向が同じ人が後ろから付いて来ているくらいにしか思わなかっただろう。ところがその人は彼らの師、イエス・キリストご自身であったのだが、そのことに気付かなかったという。

なぜ二人の目は遮られていたのか。彼らはイエスの弟子であったというから、イエスの姿も知っていただろうし、その声も覚えていたに違いない。一度や二度見かけたという程度ではなく、何日かを身近で過ごしたこともあっただろう。それにも関わらず、二人はイエスに気付かなかった。おそらく彼ら自身が、自らの目を閉ざしてしまったからなのではないだろうか。彼らが話し合っていたいっさいの出来事とは、イエスの十字架での死と空になった墓のことであった。彼らにとってイエスとは、十字架につけられて殺され、何者かがその亡骸をどこかへと運び去ってしまった。つまり、イエス・キリストはすでに過去の人になっていたのである。彼らにしてみれば、イエスと出会うには、彼ら自身の思い出の中を探さねばならなかったのである。まさか彼らと一緒に道を歩いているなどとは、思いもしなかっただろう。生きているイエスなど、想定外だったに違いない。

イエスは彼らに声を掛けて、何の話をしているのかと聞いたが、彼らは暗い顔をするばかりだった。二人の話を聞いて、イエスは彼らにこう言った。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」(同25〜26節)その後、さらにイエスは「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(同27節)

ところが、この人がイエスであることに二人が気付くのはもうしばらく後のことで、夕食を共にした時のことだそうな。イエスは死んでしまった。イエスはもうこの世にはいない。そのような彼ら自身が見聞きした経験だけに頼ってしまったがゆえに、彼らはイエスと一緒にいたにもかかわらず、イエスに気付けなかったのだ。

自分の目で見えること、耳で聞こえること、そのような自分自身の経験や体験にばかり目を向けてしまうと、人はイエスの存在に気付かないで過ごしてしまうことが多いのではないだろうか。イエスはどこにおられ、何をなさっているのか、その答えは自分の体験ではなく、神のみことばである聖書のなかにあるのだ。探す場所を誤らないように気を付けたい。

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