待つこと

電車通勤の経験が長い人であれば、おそらく一度や二度は、途中でお腹の具合が悪くなって、目的の駅にたどり着く前に下車してトイレに駆け込んだことがあるだろう。私もそのような一人である。というか、私の場合はふた月に一度くらいの頻度であることなので、通勤途中の主要な駅のトイレの場所と、どの駅のトイレが比較的新しくてきれいであるかは、概ね把握しているつもりだ。経験のある人なら分かってくれると思うが、あと一駅で降りる駅に着くから我慢しよう、などとは思わない。その一駅の距離が命取り、とまではいかないだろうが、私は経験したことがないが思わぬ事故や、そこまで至らずとも、この世に生まれてきたことを後悔したくなるほどに悶絶の一歩手前を味わうことになろう。たとえ仕事に遅れようとも、後で文句を言われようとも、そんなことはどうでもよい。安全と健康を考えるのであれば、我慢などせずにさっさと電車を降りるに限る。耐え忍んだところで、誰も褒めてはくれないのだし。

さて、ある日の私は上野東京ラインに乗って東京駅を目指すものの、ひとつ手前の新橋でギブアップ。電車を降りてトイレを目指すのだが、トイレにたどり着いたからと言って、すぐに目的を達成できるわけではない。なぜなら目的を同じにする人たちが大勢いるからだ。さらに待つこと数分。ようやく順番待ち行列の先頭になった。苦しみからの解放はもう目の前である。自分の順番が来るのをじっと待つ。もしここで誰かに「一万円あげるから譲って欲しい」と言われたらどうするだろうか。いや、冗談じゃないと、きっと断るに違いない。「では、百万円にするから」と言われたら……一瞬心を動かされてしまうが、この場所で待つことには百万以上の価値はあるだろう。まぁ、さすがに二百万と言われた、考えてしまうだろうが。待つことには待つだけの理由があり、待った末に得られるものにはそれだけの価値があるのだ。

ところで、いよいよルカの福音書も終わりまでやってきた。よみがえられたイエス・キリストは弟子たちのところに姿を現した。しかし彼らは驚き恐れ、また不思議がっているばかりで、幽霊を見ているかのようであったという。イエスは彼らと共に食事を取ることで、ようやく彼らに自らがイエス・キリスト本人であることを示すことができた。そして最後になって弟子たちにこのように言っている。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカの福音書24章46〜49節)

イエスの話されたこの中に、福音の最も大切なことがまとめられいるかのようだ。すなわち「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえ」られたということであり、キリストの「名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということである。これらのことはイエス・キリストが自らの思いで始めて、そして自らの考えで成し遂げたことではなかった。彼が弟子たちにこのことを語る前に何をしたのか。聖書にはこのように書かれている。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。」(同45〜46節)

弟子たちが今までイエスと共に過ごしてきた中で、見てきたこと、聞いてきたこと、また経験してきたこと、そして今まさに十字架で一度死に、再びよみがえったイエスが彼らと共にいるという事実、これらすべてのことは、聖書に書かれていること、つまり預言者たちの伝えてきたことが現実のことになったということであった。何より、弟子たちはその事実の証人であるということだった。彼らにはイエスの証人として、あらゆる国々に住む人々に、キリストの名による悔い改めと罪の赦しを伝えるという使命が与えられたのだ。

ルカの福音書の最後は、こう締めくくられている。「イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」(同50〜53節)

イエスの祝福を受けた彼らは、たとえ彼らのもとからイエスが去ったとしても、もはや悲しむことも恐れることもなく、喜びを持って神をほめたたえていたという。何よりも彼らはイエスに言われた通り、エルサレムに留まっていた。なぜならてイエスが言ったように「父の約束してくださったもの」を待っていたからである。もしかしたら、彼らは喜びのあまり、早々にエルサレムを出発して、福音を諸国に伝える旅に出たいと思っていたかもしれない。しかし彼らはイエスに言われた通り、「いと高き所から力を着せられる」のを待っていたのである。待つことで弟子たちが得られるもの、それは人が与えることのできるものではなく、神だけが与えることのできるものだった。

これは弟子たちに限ったことではなく、今を生きる我々にとっても同じことが言えよう。キリストの証人となるには、まずは福音の作者である神からの力を待ち望みたい。

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