赤ん坊でさえ

神がなさった良いこと。今ひとつは、人は罪人であると教えてくれたこと。

これを原罪という。すなわち、すべての人は生まれながらにして罪を負っているということだ。しかし、本当に人は生まれついて罪を犯す性質があるのだろうか。ふと、そう感じたりすることがあるのは、私だけではないだろう。例えば、生まれて間もない赤ん坊の姿や、その澄んだ瞳を見たりすると、まさしく純真無垢とはこのような小さなもののことなのではないか、と思ったりするのだ。それにしても、赤ん坊の瞳は、なぜあのように澄んで見えるのだろうか。世の中の邪気にまだ触れていないから澄んでいるに違いないという先入観があるから、そのように見えるだけなのだろうか。それとも、赤ん坊の目はまだ発達途上にあり、うまく涙を流すことができないので涙目でいることが多く、その様子が成長した子供や大人の目とは違い「澄んでいる」と見えるのだろうか。

さて、本当に赤ん坊は、その澄んだ瞳が現すように、罪も穢れも知らぬ、純真無垢な存在なのであろうか。これは海外での話だが、赤ん坊が本当に悪を知らぬかを確かめるために、ある実験をしたことがあるそうな。まず、赤ん坊にぬいぐるみを使った劇を見せたそうだ。その劇では、困っているぬいぐるみを助ける親切なぬいぐるみと、困っているぬいぐるみをさらに困らせるいじわるなぬいぐるみを登場させ、劇を見せた後に、赤ん坊にぬいぐるみを選ばせるというものだった。すると、多数の赤ん坊が親切なぬいぐるみを選んだそうな。研究者たちが導き出した考えは、何も教えられていない赤ん坊でさえも、何が良くて、何が悪いかを知っているのではないか、ということだった。

これを聞いて、ふと思い出した話がある。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3章4〜5節)これはエデンの園で、神がその実を食べてはならないと命じた木のそばで、蛇が女にささやいた誘惑の言葉だった。女は蛇にそそのかされ、実を取って食べてしまい、それどころか夫にも渡し、夫もそれを食べてしまった。

人が誰から教えられるわけでもなく、善悪の判断ができるのは、エデンの園でこの二人が善悪を知ることのできる木の実を食べてしまったからということだろうか。もちろん、善悪を知ることが罪であるとは思わない。神は二人に善悪を知るなとも命じてはいなかった。神が人に命じたのは、その木の実を食べるなということだけだった。なので二人の犯した罪は、神に背いて木の実を食べたことである。男は妻が悪いと言い、女は蛇のせいにするのだが、それでも二人が神との約束を破ったという事実は変えられなかった。

「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ人への手紙5章12節・共同訳)アダムと妻が犯した罪により、罪がこの世界に在り続けるようになってしまい、すべての人が罪を犯したものと定められるようになってしまった。その結果としてすべて人には、罪に対する罰として、死が定められるようになった。つまり、罪がこの世に入ってきたのと同様に、死もまたこの世に入ってきたのだ。

ところで善悪を知ったとしても、悪を行わずに善のみを行えばよいではないか、そう考えることもできよう。しかし本当に人にそうすることができるのだろうか。先ほどの研究者たちは、赤ん坊を対象に別の実験をしたそうである。やはり劇を用いて、赤ん坊の好きなビスケットが好きなぬいぐるみと、ビスケットの嫌いなぬいぐるみを登場させ、ビスケットの嫌いなぬいぐるみの方をいじめるというもので、やはり赤ん坊にぬいぐるみを選ばせるというものだった。すると、多くの赤ん坊は自分たちと同じようにビスケットが好きなぬいぐるみを選んだという。単純に自分と好みが同じ方を選んだに過ぎないのだろうが、研究者たちが危惧したのは、これを集団で行うと人種主義と類似した行動になるということだった。

もちろん、ある程度のバイアスが掛かった実験だったかもしれない。仮にそうだとしても、誰に教えられるでもなく、善悪、好悪の基準を持って人は生まれてくることは確かなようだ。成長するにつれ、それが激しくなる人もいれば、うまく抑えるすべを身に着ける人もいるだろうが、いずれにせよ、原罪があることに違いはない。

さて先ほどの箇所の後には、このように書かれている。「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。……一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」(同17〜18節)

自分が罪人であると知ることは、同時に自分には赦しと救いが必要だと知ることでもある。そして、それを与えてくださるのは、イエス・キリストをおいて他にはいない。

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