カテゴリー : ヨハネの福音

わたしは、よみがえりです

今さら言うようなことでもないかもしれないし、もしかしたら前にも言ったことがあるかもしれない。でも、この時期になるといつも思うことがある。私はクリスマスよりもイースターの方が好きだ。ついでに言うと、イースターと書くと、どうも言葉の持つ重みというか、本来の意味が薄れてしまうようで、これもまたあまり好きになれない。というよりも、もしかしたら日本の場合に限定されることかもしれないが、イースターの意味も分からずに、ただ形骸化しただけの玉子やうさぎに象徴されるイベントのみを世の中が受け入れているように思えて、どうも気に入らない。だから私にしてみれば、復活祭と呼ぶ方がまだ好ましく思えるのである。もっとも、それではあまりに意味が直接的な気もするし、やはり世の中としては受け入れがたいのかもしれないが。

ともあれ、なぜ私はクリスマスよりも復活祭の方が好きなのか。それは、クリスマスに特有のどこか浮ついたかのような、にぎやかさというか騒がしさがないからだ。クリスマスプレゼント、クリスマスツリー、クリスマスパーティー等々クリスマスという言葉を頭にした言葉や、クリスマスを理由にした物事は数多くあるが、復活祭、もしくはイースターという言葉を頭にしたものは少ないし、それに関わる物も少ない方だろう。考えてもみれば、イエス・キリストがこの世に生まれた日も、多くの人々にとっては他の日と同じ、つまりいつもと変わらぬ日常だったに違いない。同じように、彼が墓場からよみがえられた日も、安息日ではあったが、やはり多くの人々にとっては他の安息日と何にも変わらぬ日であったろう。それを思うと、祭りの熱に浮かされたような空気の感じられないなかで過ごせる復活祭は、どこか私を安心させるのである。
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地上を歩いた神 42・最終回

湖を眺めながらの朝食が済むと、彼らは一息ついた。果てしなく広がる空の下で、敬愛する師としばらく振りで食事をしたことに彼らは満ち足りた思いであったろう。その時、イエスがペテロに呼びかけた。「ペテロ、あなたはここにいる誰よりも私のことを愛しているか?」

「はい、私が先生のことを愛しているのは、誰よりも先生がご存じでしょう。」
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地上を歩いた神 41

復活されたイエスの姿を自らの目で一度ならず二度までも見た弟子たちは、それまで感じていた不安や悲しみが消え去っていくのを感じたことだろう。死の力さえもイエスの前では何もなせないことを知ったことで、イエスがいる限り恐れることは何もないであろうことにも気付いたかもしれない。いつまでも閉め切った部屋の中で今後のことを思い悩んで過ごすことに何の意味もなかった。

さて、まず彼らがしたことは食料の調達であった。何をするにしても、しっかりと食べるも食べて力をつけねばなるまい。腹が減ってはなんとやらというではないか。時は夜だったが彼らは小舟を湖に出して魚を捕ることにした。幸いにも、ペテロがそうであったように、弟子たちの多くは漁師の出身であるものが多かった。人から教えられるまでもなく、彼らは自分たちが何をするべきなのか分かっていたことだろう。どこへ舟を浮かべたら良いのか、どのように網を入れたら良いのか、彼らはそれを体で覚えていたはずである。ところが、この晩はいつもと様子が違った。
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地上を歩いた神 40

復活したイエスに出会ったマグダラのマリヤは、そのことを弟子たちに告げた。ところが、弟子たちはそれを聞いて喜ぶどころか、彼女の言うことに耳を貸そうとはしなかった。彼らはイエスの死については確信していたようだが、彼の復活については全く信じようとはしなかったようである。

イエスは神の子であり自らも神であるから、かつて死人をよみがえらせたように、ご自身も死に束縛されることなく復活した…そのように言葉で言ってしまえば、それはそれで簡単なことである。イエスの数々の奇跡をその目で実際に見て、イエスが話したことをその耳で直接聞いて、イエスが神の子であることを認めながら、それでも彼のよみがえりを信じないとは、弟子たちの信仰はその程度のものでしかなかったのかと疑ってしまいそうになる。しかし、そう思ってはちょっと弟子たちに酷だろう。私たちは彼らのように直接イエスと過ごしたわけでもなければ、イエスの死を間近で見聞したわけでもない。それだから、私たちは聖書を読んでも、冷静に見たり考えたりすることができるのではないか。ところが、弟子たちにしてみれば、すべてが彼らの直接の体験なのである。イエスの死を悲しみ、また自分たちが危険な立場にいることを分かっている身であればなおのこと、弟子でもない一人の女が、イエスが復活されましたと騒いだところで、それを冷静に、ああそうですかと受け止めることなどできるわけがないであろう。
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地上を歩いた神 39

イエスが埋葬された翌々日の早朝、マグダラのマリヤはイエスの墓にやってきた。イエスが亡き後も、できることならイエスのそばにいたいとの思いがあったのかもしれない。そうすることで、少なからずとも慰めを得ようとしていたのかもしれない。日が昇るのを待ちきれなかった彼女は、まだ空が暗いうちにイエスの墓にやってきた。

いざ墓の前に来るとまったく予期していないことが彼女を待ち受けていた。なんと墓の入り口を覆っていた石ーおそらく彼女の身長を上回る大きさであっただろうーが動かされており、墓の中にあるはずのイエスの亡骸が消えていたのだった。慕っていたイエスが死んだことですで気持ちが沈んでいた彼女は、気を失いそうになったに違いない。なんとか気を静め、彼女は急いでペテロともう一人の弟子にこのことを伝えに走った。
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