カテゴリー : マタイの福音

岩の上に建てる

いよいよ山上の垂訓も締めくくりである。最後にイエスは弟子たちにこう教えている。「わたしのこれらの ことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」(マタイの福音7章24節)

イエスが今まで語ってきたことばを忘れてしまった場合には、改めてマタイの福音5章から読み直してみれ ばよいだろう。イエスは多くを語ってきたが、さほど難解なことは言っていなかったと思う。むしろ話された内容のひとつひとつを見れば、ごく単純かつ簡単なものである方が多いのではないだろうか。振り返ってみれば、私が山上の垂訓をテーマとして書き始めたのがちょうど去年の5月23日なのである。途中で何度か別のことを題材にして書いたこともあったが、ざっと考えてみるとイエスが山の上で弟子たちに教えられたことを見るだけでおおよそ一年間も費やしたことになる。どちらかと言えば、それだけ長い時間が掛かったということの方が驚きかもしれない。
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奇跡を行う者

人は口では何とでも取り繕うことができるだろうし、心の内側を他人が知ることはできないように、私たち には他人の信仰の真相について知ることはできない。人が「私はクリスチャンです」と言うのであれば、それを受け入れるだけのことであるし、もし「私はキリストを信じていません」と言うのなら、その事実を受け入れるまでのことだ。さてキリストはこのように言っている。「大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 」(マタイの福音7章22~23節)

今でこそキリストを信じていないにもかかわらず、キリストの名によって奇跡を行う人はいないであろうと 思う。しかしキリストと同じ地域で同じ時代に生きた人々の立場から考えてみよう。当時はキリストがまだどのようなお方であるかを明確に知っていた人々は少なかったことだろう。弟子たちですら正しく理解していなかったことだろう。私たちが今読んでいるような聖書もまだ完成されていなかった時のことであるから仕方ないのだが。さて人というのは昔も今も、その本質においては変わらないであろう。であるとすれば、イエスの活躍を知った人々の一部は弟子たちと一緒になって彼に従ったことであろうし、また一部の者たちは彼を模倣しようとしたに違いない。
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主か、我が主か

預言者と名乗る者たちが、どのような結果を実らせるかによって、人はそれらの者が神から出た者かどうか を判断することができる。ところでちょっと前の箇所でイエスは人を量るものさしで自らも量られると言っていたではないか。ということは、自らを預言者と言わないまでも、私たちの言葉と行いが神を指し示すものであるのかどうかということも人に見られているのではないだろうか。他人が見るということは、当然ながら神もご覧になっているに違いなく、むしろ私たちが人の目にどのように映るかということよりも、神の目にどのように映るのかという方が重要なのではないだろうか。

キリストは弟子達にこのように言っている。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御 国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイの福音7章21節)
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「羊」それとも「狼」

先に見たとおり、キリストのことばに従うのであれば、安易な道は広い門へと続き、広い門は霊的な死を意 味し、その反対に険しい道は狭い門へと至り、狭い門は霊的ないのちを意味する。「どうしたから」という理由はあえて考えないで、「どうなる」という結果だけで考えるとしたら、多くの人々が狭い門から入りたいと考えていることだろう。キリスト者としての模範的な言い方をすれば、全ての人々が霊的ないのちを得ることを願っているに違いないと期待するべきなのかもしれないが、世の中には様々な考えの人がいることを考えに入れると、自ら選択して破滅への道を進もうとする人も少数ながらいるのではないだろうかとも勘ぐってしまう。ところがいくら世の中の大多数の人々がいのちを望んでいるとしても、残念ながら誰もが肉体の死を超えた永遠のいのちを手することができるというわけでもない。だから狭き門が狭き門と言われているのかもしれない。その反面、知らずのうちに広い門へ導かれてしまう人々の方がはるかに多いことだろう。

ところで人間というのは目で見ることのできるもの、耳で聞くことのできるもの、手で触れることのできる もの、すなわち五感で感じることのできるものに頼ってしまうことが傾向として多いのではないだろうか。例えば家を留守にするときに、トイレの電気を消したかとか、湯沸かし器のスイッチを切ったかとか、玄関を出て駐車場に着いて車に乗り込んでエンジンを掛けてから、ふと不安になったとしよう。そこでちゃんと始末をしてきたかを確認しようと、助手席に座っている妻に「電気消した?湯沸かしのスイッチ切った?」と聞いて「電気も消したし、湯沸かしも切ったわよ」と答えられても、やはり心配になって今一度自分の目で確かめるまでは納得ができないこともあるという具合だ。要するに、何を一番信用するかと言えば、人の言葉ではなく、自分自身の五感なのである。人を疑い過ぎるというのも考え物だが、やはり自己防衛本能の働きなのであろうか。
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狭き門

「狭き門」というフランス文学作品がある。正直に言うが、私は読んだこともなければ、どのような物語な のかも知らない。しかしながらその題名だけは何となく聞き知っている。そのうち機会があったら読んでみようか。でもその前にフランス語を勉強しなければ……というのは、さすがに無理だろうから邦訳されたものを読むしかあるまい。それはさておき「狭き門」という言葉を聞いて、真っ先に思い浮かぶのは、イエスのこのことばである。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。」(マタイの福音7章13節)

狭い門とは何であろうか。狭い門が何であるかという前に、キリストは大きい門について語っている。間口 の大きい門へと至る道は、これまた同様に広いらしい。果たしてその大きな門から入るとどこへ行くことができるのか。その先には何があるのだろうか。何やら良いものでもあるのかと思いきや、キリストのことばを借りるのであれば、そこで人々を待っているのは「滅び」であるとか。滅びとは何やら穏やかならぬものである。具体的に滅びが何を現わしているのかは分からないが、そこから連想されるものは死である。しかし人間という存在は、いや人間に限らずともこの世に生きるあらゆるものは、いつか必ず死を迎えなければいけない。それが一日先か、一年先か、十年先か、百年先か、はたまた千年先かは分からないが、生きているものは人も動物も植物も、例外なくいつか時が来れば死ぬのである。残念ながら不死というものはこの世界には存在しない。滅びゆくのは何も生き物だけではない。私たちを照らす太陽もやがては熱を失い消えてゆくし、その過程において地球は太陽に飲み込まれるか、もしくは融解するであろう。 続きを読む