カテゴリー : 箴言

良妻への道

いつの時代か正確なことは分からないが、昔々のことは確かである。マサという国にレムエルという名の王がいた。そして箴言を締めくくるべく最後の章の著者はイスラエルの王ソロモンではなく、マサの王レムエルのようである。しかしレムエルがマサの王であったこと以外に、果たしてどのような人物であったのか、何の手掛かりもない。前章の著者であるマサ人ヤケの子アグルもそうであったように、聖書の他の箇所には登場しないのだから仕方ない。一説では、レムエルというのは実はソロモンのことであるとも言われている。もしかしたらそうかもしれないし、そうでないかもしれない。私には分からないし、おそらく誰一人として真実を知る者はいないだろう。

ところで箴言31章は、女性が中心となって書かれているかのような印象を受ける。まず前半部分はレムエルが母から伝えられたという戒めの言葉について書かれている。改めて考えてみるに、ソロモンは父から教えられた言葉を残しているのだが、レムエルは母の言葉を記しているのである。そう考えると、やはりこれはソロモンとは別の人物によって書かれたのではないかと思うのだ。さて話がわき道に逸れてしまいそうになったが、この章の後半部分は妻のあるべき姿、いわゆる良妻とはどのようなものかについて書かれている。私にとってはいかにも、と思われる言葉ではあるが、おそらく妻にとってもは耳に痛い言葉かもしれない。例えばこのような具合である。「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。」(箴言31章10節)
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あとがき

箴言を通して知恵者であるソロモンの言葉を追ってだいぶ経ったと思う。箴言は全部で31章あるので、今回の分と次回の分を合わせると箴言をざっとではあるが、最初から最後まで見てきたことになる。少なくとも私は全部読めたので私にとっては良かっただろう。では今回も続いてソロモンが何を言っているかを見てみよう……とはならない。実は前回見た29章がソロモンが書いた最後の箇所なのである。ソロモンの言葉を期待していた人には何とも申し訳ない。しかしソロモンが書いていなくとも、箴言にはまだ二章ほど残されているのだから、続きを見ていこうと思う。

ではソロモンが書いていないとすれば、果たして一体全体どこの誰が箴言の30章を書いたのだろうか。箴言30章は、このように始まっている。「マサの人ヤケの子アグルのことば。イティエルに告げ、イティエルとウカルに告げたことば。」聞いたことのない名前ばかりだ。ましてやこの章に書かれている言葉の主として名前の挙がっているアグルとは、聖書の他の箇所には一切登場しない。唯一箴言のこの箇所だけに名前を残すにとどまっている。だから彼が何者であるか詳しいことは分からない。一説には、ソロモンが別の名前を使って書いているとも言われているが、それにしては今までと雰囲気が全く違い過ぎるようでもある。であるとすれば、やはりアグルという人物がいたのかもしれない。
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愚かさと知恵と

知恵のある人とは、果たしてどのような人たちを示しているのだろうか。確かだと思えることは、私はその中には入っていないだろうということである。私は自分自身の浅薄さというか、知恵の足りなさを十分に承知しているつもりである。もっとも物は考えようで、それを悲観したり、卑下したりする必要はないのかもしれない。私にとって都合の良い見方をするのであれば、自らの愚かさに気付かずに、自分は知恵があると思い込んでいる人々よりは、自分に欠けているものが何かを知っているということになるので、自分が求めるべきは何かを知っているからだ。もちろん、それを求める求めないは、また別の次元の話かもしれないが。

しかし私が悟らずとも言わずとも、人は知恵を求めるべきであるということは、ソロモンが幾度となく箴言の中で繰り返し言っていることである。ところで知恵のある人がどのような人物であるかを知るということは、どうすれば知恵を得るかを知ることになるのではないか。またその反対に、知恵のない者がどのような人物であるかを知るということで、どうすれば知恵を失ってしまうことになるかも知ることにもなるだろう。たとえ今の私に知恵がなくとも、少なくとも知恵のある人がどのような人であることかを知ることで、あわよくば私自身も少しは知恵を得ることになるのではないかと、ちょっとばかり期待をしているわけである。それでは知恵のある人について、ソロモンは何と言っているのだろうか。改めて箴言に目を向けていきたいと思う。
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焦るは損

急がば回れ、ということわざがあるかと思えば、急いては事をし損じる、ということわざもある。焦りは禁物というのは、多くの人が自らの実体験から気付いていることだろう。仕事にしても勉強にしても何事においても、急いでやろうとすれば失敗することが多いのではないか。もとより人は完全な存在ではない。すべてを把握し、あらゆる状況を想定して行動することのできる人などこの世にはいないに違いない。だからこそ人は予定や計画を立てるのではないか。しかし残念なことに現実には、どれだけ念入りに計画を立てたとしても、その通りにならないことも往々にしてある。その念入りさを欠いてしまえばなおのこと、人は細かいところにまで気が回らずに、おおざっぱにしか物事を扱うことができなくなってしまうだろうし、そこからは何ひとつとして良いものは出てこないだろう。

しかしながら「急いては事をし損じる」と言うもの、それでもなぜ人は焦ってしまうのだろうか。私自身のことを振り返ってみると、いくつか理由が思い浮かぶ。そのひとつは、早く目的を達成したいと気持ちがあるからだ。要するに辛抱することがきない、待つことができないのである。もうひとつは、手間を掛けたくないのである。要するに難しいことや頭や体を動かすのが面倒になってしまうのだ。そのような焦る人に向けられているかのような、このようなソロモンの言葉がある。「貪欲な人は財産を得ようとあせり、欠乏が自分に来るのを知らない。」(箴言28章22節)
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明日を守られる神

「明日はどんな日か、私は知らない」という賛美がある。まったくこの賛美の通りで、人は明日どうなるかと知ることはできない。明日はこうなるだろうと予想したり、明日はあれをしようと予定を立てたりすることはあるだろうが、明日に確信を持つことはできない。明日のことや将来のことについて、ソロモンはこのように語っている。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27章1節)

未来のことが分からないことは仕方がないことである。そして今後のことをあれこれと考えたり、心配したりするのが人間の常であろうし、それもまたしようのないことだ。しかしそれを悔やんだり反省したりすることはないだろう。ソロモンはそのような人としてのごく当然の感情や考えを、ここで否定しているのではないだろうし、それを非難しているわけでもないだろう。あらためて読み直すと分かるが、ソロモンが戒めているのは、明日を自慢することである。自分では知ることのできない将来のことを誇りにしてはならぬと、注意を与えているのだ。
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