カテゴリー : エッセイ

帰ってきたペテロ

何が大変かと言えば、毎度のことだが、「これ」の書き出しをどうするかということだ……。いきなり本題、つまりは聖書の話から入ることもできるのだが、そうすると真面目になり過ぎてしまうような気もするし、いかにもな雰囲気にになってしまいそうで、どちらにしてもかたくるしいものと思われてしまい、そうなると興味を持ってもらえないのではないか、つまり読んでもらえないのではないか、などと考えてしまうのである。そういえば牧師さんも礼拝のメッセージの前にジョークなり、小話を語ったりするものだが、なんとなくそうする牧師さんの気持ちも分からなくもない。わざわざ最初から敷居を高くしてしまうこともないだろう。むしろ敷居を低くしておいて、話の聞き手なり読み手なりの注意を引き付けておきたいものである。本題で伝えたい肝心なところにたどり着く前に、相手の興味が失われしまっては元も子もないというものだろう。

それにしても、毎回ネタを考えるのは難しい。毎日の生活の中での思ったことや気付いたこと、見たことや聞いたことから、これぞというものを探そうとするのだけれども、いざ書こうとすると何も思い浮かばないこともある。さすがに、手持ちのネタも底を尽いている今日この頃である。頑張って何とか捻り出そうと苦労しているのだ。今さらだが、気になったことをその都度書き留めておけば、後から役に立てることができそうなことは分かっているのだが、実際はそうするわけでもない。私の問題は、せっかく思いついた物事を忘れてしまうということもさることながら、いや、もしかしたらそれよりも根が深いのは、忘れてしまう自分に気付かないことだろう。「良いこと思いついた!次はこのネタを使おう!」とその時は妙な自信たっぷりなのだが、後から「ありゃ、何だったかな?」となってしまうのである。
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求めていたもの、必要なもの

先日、私の誕生日であった。人生百年であればまだ半分以上は残っている。もし90年であれば、折り返し地点はすでに過ぎている。さて残りの人生どれほど残っているのかは分からないが、なんだか長生きしてしまいそうな気がしなくもない。あまり長生きもしたくはないのだけれど。まぁ、こればっかりは神が何と考えておられるか分からない。まさしく天の御心のままにと、神に委ねるしかない。

それはさておき、さすがにこの年齢になると誕生日だからといって、プレゼントをもらえることもない。そんなわけで誕生日プレゼントというものが欲しければ、自分で買うしかないのである。ということで、何を買おうかと考えてはみるのだが、欲しいものがありすぎて困ってしまう。まったく物欲の深さに我ながら呆れてしまう。ここしばらく控えていた車の部品を交換しようか、それとも変わり映えのないコレクションに加えるべく腕時計を買おうか、はたまた妻が買い換えたのに合わせてスマホを買い換えようか、いや、やっぱりここは最近の私が最も熱意を感じていることを考えると、ウォーキング用の靴を買おうか……と悩んでしまう。とは考えてみるものの、いざ自分で買うとなると、予算の制限が出てくるので欲しいものと買えるものを見極めなくてはならない。自制心がどれだけ保てるのか、まさしく葛藤である、自分自身との戦いである。まぁ、冷静になって考えてみれば、週末にしか乗らない車にお金をかけるぐらいならば、次に車を買い替えるために今は我慢した方がいいのかもしれないとか、腕時計のベルトだけを変えれば気分転換にもなるのではないかとか、自力でバッテリーを交換しただけに愛着のあるスマホを変えるのはもったいないとか、靴は必要なものだから都度必要になったら買えばいいじゃないかとか、なんとか今のところは落ち着いている。とは言うものの、ヤフオクのウォッチリストにまだ車のパーツと腕時計が登録されているので、完全に物欲が収まったわけではないようだ。
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ある議員の期待したもの

夏になるといつも気になることがある。今まで四十数年間生きてきて、今でもその答えを私は知らない。真剣に考えたことがなかったし、真面目に知ろうとしなかったからかもしれない。普段は気にしないで過ごしているが、ふとしたことで思い出すと、気になってしかたがない。もしかしたら人に言わせれば、そんなことも知らないのかと呆れられてしまうかもしれない。しかし私にはいつまで経っても分からないのだ。もしかしたら、誰かに教えてもらったことがあったかもしれないし、自分で調べてみたことがあったかもしれないが、なぜか私の記憶にはまったく留まらないようである。それほどに私を悩ませているものとは、一体何なのか。それは「そうめん」と「ひやむぎ」の違いである。

さすがに「うどん」と「きしめん」の違いは分かる。だが、白くて細くてツルツルしている同じような姿の、そうめんとひやむぎは何が違うのか。「今日の昼食はそうめん」と言われて出されれば「あぁ、そうめんなんだ」と思って食べるし「今日はひやむぎ」と言われたら「ふーん、ひやむぎなんだ」と何の疑問も持たずに食べるだろう。違いが私には分からないのだから。きっと「今日はそうめん!」と言われて、ひやむぎを出されても「違うじゃん、今日はひやむぎじゃん!」とは言えない。いずれにしても、暑い時期に食べるにはおいしいから、なおのこと違いなどはどうでもよくなってくるのだろうか。ちなみに、私は蕎麦の方が好きである。「冷やし蕎麦が食べたい」と言って、白くて細いの(に限らずとも、白くて太いのでも同じことだけど)が出されようものなら、間違いなくがっかりする。ちなみに黄色い麺も好きだけど、これはちょっと系統が違うか。この時期だと、太めの麺を氷で締めて、アツアツの煮干し出汁の濃厚豚骨スープに……あー、いかんいかん、そんなことを考えていると、夜中だというのにだんだんと腹が減ってくるじゃないか。
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百人隊長の直感

今更言うまでもないことだろうが、私は素直な人間ではない。どちらかといえば、疑い深い人間である。さすがに身近な人たちの言うことを疑うことはあまりないとは思う。しかし関係のない他人の言うことは、疑って掛かることがほとんどである。自分の目で見て、自分の耳で聞いて、それらのことをじっくりと吟味して、そうしてはじめて納得できてから、ようやく受け入れるに値するものとして認めるのである。嘘か真か白黒はっきりすることができずに、なおかつ確たる根拠がないものについては、たとえ人が良いといっても、それを受け入れることはまずない。

考えてもみれば、そんな私がイエス・キリストを受け入れて、信仰を持つに至ったとは、自分で言うのも何だが、まさしく奇跡というようなものであろう。イエス・キリストを受け入れたその時まで、私はイエスを見たことがなかったし(当然今でも見たことはないが)、イエスが話すのを聞いたこともなかったし(やはり、今でも聞いたことはないのだが)、イエスのことを吟味するに足る十分な材料があったというわけでもなかった。もっとも信仰を持つようになってから考えてみれば、私のようなちっぽけで、足りないところだらけのつまらない一介の人間が、神の子であり救い主であるお方を吟味しようなどとは、おこがましいことこの上ない。
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上から下まで真っ二つ

「わが日の本は島国よ」と聞いて、生まれながらの横浜市民ならその先を続けられるに違いない。私などは小学生の頃に何度も何度も歌ってきたから、四十歳を過ぎた今でも覚えているくらいだ。横浜市歌でも歌われているように、日本は四方を海に囲まれた島国である。さらにそれだけでなく、東西に狭く南北に長い。ほぼひと月ぶりに猛暑日と観測された場所がゼロになったかと思ったら、同じ日に北海道では初雪が観測されたという具合である。そんな日本の地形が頭にあるから、ついこのような勘違いをしてしまう私である。「海岸線を持たない県はなかったんじゃないかな。」申し訳ない、地理は昔から苦手なのである。そこでちゃんと数えてみると、日本には海と接していない県が八県あることに気付く。もっとも47都道府県のうち8県であるから、やはり少ないことには違いないか。それに滋賀県には海がないと言っても、日本最大の湖である琵琶湖があるから、ちょっと他とは違うかもしれない。そういえば、琵琶湖ってまだ行ったことがないな……。

ところでそんな内陸県のひとつ、栃木県で3週間ほど過ごして帰ってきたのだが、やはり横浜に帰って来て、駅から自宅への帰り道、階段を上りきったところで振り返って景色を眺めて、街並みの向こうに改めて海を目にすると不思議と安心を覚えるのだ。考えてもみれば人間の体の大半は水で出来ているという。それに一つの学説としての進化論では生命の起源は海にあるというし、また聖書に従えば「神は『天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。』と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた」(創世記1章9〜10節)とあるように、あらゆる生き物に先だってまずは海を創造されている。どうやら、海と人とは切っても切れない関係にあるのだろうか……というのは、私だけが思っていることかもしれないが。
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