カテゴリー : 2010年の作品

断食する信仰

私は食べることが大好きである。おいしいものが大好きである。だからと言って、自分のことを美食家と呼ぼうとは思わない。美食家がコンビニのおにぎりや、肉屋のコロッケごときで満足することはないだろう。そんな私であるから、はっきり言って自慢にはならないだろうけど、断食とは無縁である。もちろん人によっては断食をすることもあるのかもしれない。実際のところ断食祈祷院というものも存在しているので、現に断食する人もいるのだ。もちろん、イスラム教のラマダンではない。キリストを信仰しているクリスチャンのことである。

それでは信仰者はなぜ断食を行うのだろうか。信仰者ではあっても今までに断食をしたこともなければ、今後も断食をすることはないだろうと思っている私なりに考えてみた。結論から言ってしまうと、私が断食をしないのは、ただ単純に私が食べることを至上の喜びと考えているからでもないし、断食をするだけの理由がないということでもない。改めて省みるに、私の信仰が篤くもなければ熱くもないという、生温くって中途半端なものだからかもしれない。
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救い主

もうすぐでクリスマスなのだけれども、いまひとつクリスマスな気がしない。考えてみるに、クリスマスは12月ということもあって、寒いという印象が実に強い。ところがどうしたことか、今年は12月に入っても暖かな日が多く、クリスマスがどうこう言う以前に、まず冬になったという気がなかなかしなかった。冬にならないのであれば、クリスマスになるわけがないという、何ともわがままな感覚でしかないのだが、おかげで今年はなかなかクリスマスがやってくるという気分にはなれないでいた。幸いにも、ここ一週間ほどで気温がぐっと下がるようになってきたので、ようやく冬らしくなってきた。今になってクリスマスがやってくるような気にもなってくるのだ。まぁ、こんな私であるから、おそらく南半球で生活することはできまい。そんな私には想像もできないことだが、南半球で生まれ育った人々にとっては寒いクリスマスというのが考えられないのだろう。それはそれでおもしろい。

さて寒かろうが暑かろうがクリスマスは必ずやってくるのだ。果たしてイエス・キリストが12月25日にお生まれになったのかどうかは、実際のところ私には分からない。そもそも現行の太陽暦(グレゴリオ暦)が正式に使われるようになったのはイエス・キリストが誕生してから相当時間が経ってからからである。ちなみに日本がこれを採用したのは明治に入ってからのことだ。長い年月を経たうえに、日付の数え方も変化してきたことを考えれば、イエス・キリストが何年何月何日に誕生したのかをピンポイントで言える人なんていないだろう。
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しかし

罪を憎んで人を憎まず、とは言うけれども、確かにその通りであろう。人の悪を憎むのは仕方がないにしても、それを理由にいつまでも人に恨みを抱くのはいかがなものだろうか。キリストも言っているではないか。私たちが人の罪を赦すのであれば、神は必ず私たちの罪をも赦して下さると。これは確かな神の約束なのである。だから人を赦すことは、私たちにとって不都合なことではないのだ。

しかしその一方で、もし私たちが人を赦さなければどうなるのだろうか。キリストはこう教えている。「しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイの福音6章15節)

つまりどういうことかというと……などと説明するまでもあるまい。キリストは何も難しいことを言っているのではない。至極単純なことである。私たちが人の悪を赦すのであれば、私たちの悪も赦される。私たちが人の悪を赦さないのであれば、私たちの悪も赦されない。その中間というものは存在しない。人の罪を赦したにもかかわらず、私たちの罪が赦されないということもないし、私たちが人の罪を赦さなかったにもかかわらず、私たちの罪が赦されるということはない。
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もしも

祈り方を示した後も、イエスの話はまだ終わらない。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。」(マタイの福音6章14節)

振り返ってみれば、イエスは祈りの中で似たようなことを言っていたではないか。もちろん、これは神と取引をするという意味ではない。私たちがこうすれば、神はああしてくれる、というものでもないし、私たちがこうしたから、神がああしてくれたというものでもない。今していることも、過去にしたことも、将来することも、いかなるものも神の思いを変えることはできない。神は、人の行動や言動によって、左右されてしまうような存在ではない。見ようによっては、神というのは冷徹な存在に思えるかも知れないが、決められたことは必ず行う、御自身の意志に忠実な神とも言えよう。
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アーメン

イエスは祈りの最後にこう言っている。「アーメン。」(マタイの福音6章13節)

これに倣ってだろうか、クリスチャンは祈りの最後に、必ずと言っていいほど「アーメン」と言う。もちろん、私もそうするひとりなのである。そう言えば子供の頃には、どこの誰が最初に言い出したのかは分からないが、「アーメン、ソーメン、冷やソーメン」などとふざけたことを言ったこともある。これまたどうでもよいことかもしれないが、なぜかラーメンというのは登場しなかったようだ。たしかに「アーメン、ラーメン」と言ってみると、語呂が合わない。まぁ、それはそれとして、私も信仰を持って祈るようになってから、最後はアーメンと言うようにしている。声に出して祈るときもそうだし、声に出さずに心の中で秘かに祈るときもそうである。もっともいつも必ずというわけでもない。時々、忘れてしまうこともある。しかし意図的に「アーメン」と言わないでいようと思うことはまずない。だからと言って、言わなければいけないと考えているわけでもない。要するに、意識しているわけではないということだ。祈った後に、自然と出てくるのである。
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