カテゴリー : 2012年の作品

愚かさと知恵と

知恵のある人とは、果たしてどのような人たちを示しているのだろうか。確かだと思えることは、私はその中には入っていないだろうということである。私は自分自身の浅薄さというか、知恵の足りなさを十分に承知しているつもりである。もっとも物は考えようで、それを悲観したり、卑下したりする必要はないのかもしれない。私にとって都合の良い見方をするのであれば、自らの愚かさに気付かずに、自分は知恵があると思い込んでいる人々よりは、自分に欠けているものが何かを知っているということになるので、自分が求めるべきは何かを知っているからだ。もちろん、それを求める求めないは、また別の次元の話かもしれないが。

しかし私が悟らずとも言わずとも、人は知恵を求めるべきであるということは、ソロモンが幾度となく箴言の中で繰り返し言っていることである。ところで知恵のある人がどのような人物であるかを知るということは、どうすれば知恵を得るかを知ることになるのではないか。またその反対に、知恵のない者がどのような人物であるかを知るということで、どうすれば知恵を失ってしまうことになるかも知ることにもなるだろう。たとえ今の私に知恵がなくとも、少なくとも知恵のある人がどのような人であることかを知ることで、あわよくば私自身も少しは知恵を得ることになるのではないかと、ちょっとばかり期待をしているわけである。それでは知恵のある人について、ソロモンは何と言っているのだろうか。改めて箴言に目を向けていきたいと思う。
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死ぬために生まれ

世の中には富んでいる人もいれば、貧困のどん底で必死な人もいる。一世紀以上も生きてきた人もいれば、今この瞬間に生まれたばかりの人もいる。男もいれば、女もいる。順風満帆な人生を楽しんでいる人もいれば、悔やんでも悔やみきれない思いの人もいる。かく言う私は、四十路の男である。良くも悪くも、それ以外に取り立てて書くこともない凡人である。当たり前のことだが、人々は十人十色、千差万別である。たとえ双子であってもまったく同じ人はいないとも言われているくらいだ。しかしどのような人であっても、絶対と言い切ることができる共通点がひとつだけある。それは人である限り死ぬということだ。好もうと好まざると、これだけは「保証」されている。

キリストを信じる者は永遠のいのちを得るとは言うが、クリスチャンだって時期が来れば死ぬ。私などとてもその足下にも及ばないような、聖書に登場する立派な信仰者たちでさえも死んでしまったではないか。それにしても、なぜクリスマスだというのに、四十路の凡才はこんな気の滅入るようなことを書いているのだろうか。しかも救い主イエス・キリストの誕生を祝う、この時期にである。本来であれば、もっと前向きで、もっと喜ばしい話題を語るべきなのだろうと、思わないわけでもないのだが。
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おとめマリヤ

十二月も半ばを過ぎたなぁ、などと思っていると、ふと見掛けた電車の吊り広告にこうあった。「年末ジャンボ宝くじ、販売は12月21日まで。」ふーむ、一等前後賞合わせて六億円とか、実に景気の良い話である。今年も買おうかとどうしようかと悩みつつ、まだ買わない自分がいる。余り物には福があるとばかりに、ぎりぎりまで待っているわけでもない。たかだ夢を見るのに三千円というのは、ちょっと高いのではないかと、ためらっているだけだ。ケチな話かもしれないが、三千円を払うだけの余裕があれば、自分が欲しいと思うものや、何か役に立つようなものや、後々まで形に残るものを買うのに使った方が得なのではないかと考えてしまうのだ。しかし何よりも、神が我が家を宝くじを用いて祝福することはないだろうと最近思うようになってきたのだ。もちろん信仰さえあれば、宝くじで祝福というのもあり得ない話ではないだろうが、私に限って言えば、宝くじは神の選ぶ手段ではないと思う。これもまた信仰なのであろう。

しかし駅の構内などにある宝くじ売り場にたまに掲示してある「二等三千万円、この売り場から出ました!」などと言った看板や張り紙を見るたびにこう思うのである。誰かの人生が変わったな、と。それが良い方に変わったか、悪い方に変わったかは、それは私の知るところではない。おそらく宝くじを買う多くの人々は、是が非でも当ててみせようと意気込んで買うのではなく、私と同じように、買うのは夢であって、運が良ければ当たるかも知れないという軽い気持ちで買っているだろう。そのようなどこにでもいるような人が一瞬にして何千万、いや何億円という金額を手にすると知ったらどうなるだろうか。私には想像すらできないが、おそらく驚くことに違いはないだろう。実際、賞金を受け取りに来ない人がいることを考えると、文字通り「運を使い果たす」というわけではないだろうが、ショックで死んでしまう人もいるんじゃないかと疑ってしまう。まぁ、予想外の出来事に遭遇したときの反応というのは、人それぞれであろう。
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目立たぬ二人

先日、幼稚園に通う次女が降誕劇に出演するというので見に行ってきた。幼稚園で降誕劇を見るのは、実に先日で四回目である。長女が登場したのは二回目、次女が登場したのは四回目である。一回目と三回目は当時年中であった娘たちの劇が終わった後に、幼稚園のホールから途中で抜け出すわけにもいかず見ていた程度である。ところで降誕劇と言えば、元々がバリエーションが無いうえに、さすがに何度も見ているものだから流れが分かってしまう。ちなみに園児が少ない年には、ザカリヤとエリサベツの役が無くなるというのも知っている。それにしてもこの二人はどういうわけか、クリスマスの物語の中では表舞台に立つことが少ないようである。しかし目立つことがないからといって、彼らが重要ではないというわけでもないだろう。キリストを迎えるにあたって、彼らには彼らなりの役割というのがあったはずである。

さて、目立たぬザカリヤとエリサベツに今回は目を向けてみたいと思う。聖書では二人についてこのように記録されている。「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」(ルカの福音1章5〜7節)ついでに言うならば、イエスの母であるマリヤとエリサベツとは親戚であったという。どの程度の親戚なのかは、ちょっと分からないが、これも単なる偶然ということはないだろう。
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イエスを求めて

ふと気付いたら、もう十二月である。いつまでも季節外れな暖かな日が続くもんだと、ついこの前まで思っていたが、さすがの私でさえも暖かいと感じることもなくなった。いつの間にやら、日が当たらないと家の中も寒く感じられるようになったので、先日ようやく押し入れの奥にしまい込んでいたヒーターを引っ張りだしてきた。改めて我が家のことを思うと、居間にヒーターを出す頃になると、おなじ部屋にクリスマスツリーも登場するのである。さほど広くもない居間に存在感のある両者がでーんと構えているのを見ると、ゴロ寝をしてテレビを見るのが、なんとはなしに窮屈に感じられてしまう。いまさらではあるが、もうすぐクリスマスなのであるなぁと実感。

さてクリスマスも近づいていることであるし、箴言から読んでいくのはしばらく休みにして、せっかくなのでクリスマスに関係することを考えてみようかと思う。知恵者であるソロモンの言葉から見ても良いのかもしれないが、年に一度しかめぐってこないこの時期に、あまり堅苦しいことや難しいことを考えるというのは、ちょっと味気ないだろう。ということで、今回からクリスマスまでは、イエス・キリストの誕生に関わり合うことになった人物たちについて見ていこうかと思う。
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