カテゴリー : 2014年の作品

シメオンへの約束

もうすぐ一年が終わろうとしている。ついこの間年が明けたかと思ったら、もう年末である。一年なんて、始まる頃は長そうに思えたのだけれども、終わる頃になると短かったと感じてしまうのだから、人間の感覚なんてずいぶん適当なものである。年の瀬に過ぎし一年を振り返って「長かった」と思っていたのは一体いつ頃までだっただろうか。年を重ねる毎に時間の過ぎていくのが早く感じられるようになっているようだが、昔も今も一年の長さは変わっていない。一年というものに限らずとも、時間というのは不思議なもので、何かが始まるころには先が見通せないこともあってか、長く感じられるものだが、それが終わる頃には、あれよあれよと言う間に過ぎてしまったと感じられるものである。

それはさておき私は今年で四十二になった。年齢のことである。私は一体あと何年ほど生きるのだろうか。仮に八十四だとすると、今がちょうど半分、折り返し地点のようなものである。もっとも人の齢なんてものは、誰にも先を見通すことができないものである。クリスチャンでありながらこんなことを言うのはヘンかもしれないが、私の生命線はとても長い。それが何か確たる根拠になるわけでもないだろうが、八十四を通り越して長生きしそうな気もする。まぁ、こんな脳天気なことを言っているくらいだから百歳まで行ってしまうかもしれない。ともあれ、まだまだ先は長く思われる。
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求めるもの

子供はいいもんだ。クリスマスになるとサンタクロースからプレゼントをもらえるのだから。残念なことだが、大人になるとサンタからプレゼントをもらうこともなくなってしまうのだ。もっとも子供がサンタに期待するものはおもちゃかそれに近いものだろうから、サンタや小人たちにとっては、さほど経済的にも労働力的に負担にはならないのかもしれない。小さなおもちゃ程度であれば、トナカイたちだって苦労せずに運ぶこともできよう。ところが大人が期待するものは、さすがのサンタでさえも手に負えないものばかりかもしれない。

もし私がサンタにお願いをするとしたら、何を頼むだろうか。お金?いや、サンタにお金を作る権限はない。では、せめて宝くじの当たり券?ダメか、サンタに将来を見通す能力はない。富が無理なら、恋人とか?あ、これは足りているから論外か……もう十数年若ければ話は違って……。では、具体的に形のあるものなら可能だろうか。庭とプールと車庫がついた家とかはどうだろう?え、トナカイが運べないって。じゃあ家が無理なら車とか?コペンくらいだったらトナカイでも運べそうだし、なんだったらサンタが乗ってきてくれても構わない。あ、燃料、保険、税金は自腹を切れってことになるか。それじゃあ最初に戻って、やっぱりお金……何とも欲が深いものである。欲深な悪い大人では、サンタも相手にしたくないに違いない。
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エデン以来

街を歩いていれば、たまに教会を見掛けることもある。数えたことがないから正確なところは何とも言えないにしても、いわゆるミッション系の学校といえば、幼稚園から大学までかなりたくさんあるだろう。であるにも関わらず、今の日本ではキリスト教がさほどに浸透していないのが現実である。そのわりには、いつもながらに不思議に思うのであるが、クリスマスの時期になるとなぜか世間が賑わいを見せるのである。もしかしたら年末が近いということもあるのかもしれないが、一年を通して、街の中がこれほどまでにライトアップされ、きれいに飾り付けられているのは、おそらくクリスマスを除いて他にはないのではと思えるほどだ。しかし大いに盛り上がりを見せるわりには、誰もクリスマスの起りについて考えることはないようである。単純にお祭りごとが好きなだけなのだろうか。

さて今日の賑わいとはまるで正反対で、静かであり地味だったのが、人類の歴史における最初のクリスマスであろう。イエス・キリストがこの世に誕生された時、誰も家をツリーを飾らなかったし、プレゼントを贈ることもなかった、もちろんサンタクロースも赤い鼻のトナカイもまだ生まれていなかった。イエス・キリストの誕生を知っていたのは、ヨセフとマリヤ、そして羊飼いたちだけであった。クリスマスを祝うような人たちは、他には誰もいなかったのだ。またその誕生を待ちわびていたであろうマリヤの親戚のエリサベツに、その夫のザカリヤも、まだキリストの誕生は知らされていなかっただろう。
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あり得なさそうな

正直に言うが、赤ん坊というのは、実におそろしい存在ではないかと私は思うのだ。その小ささゆえに、見たところとても弱そうで脆そうで、ちょっとしたことで壊れてしまいそうである。だからその取り扱いに念入りにならざるをえない。まったくおそろしいものである。私の娘がまだ赤ん坊だった頃は、抱っこをするだけでも非常に神経を使ったものだ。まぁ、感謝なことではあるが、今日まで無事に育ってくれたおかげで、多少雑に扱っても壊れる心配はない。むしろこちらが雑に扱われて、こちらが壊れてしまうのではないかと、別の心配が出てくるのだが。とは言え、あの頃を思うと、生まれたばかりの長女を産湯に浸けるというのは、私にとってはなかなか度胸を求められることであった。

それにしても暖かいお湯の中で洗い清められ、きれいな産着に包まれて、柔らかな布団の上に寝かされる赤ん坊というのは、不思議と見ている者を安心させるものである。見ているだけだから、何の心配もないというのも事実かもしれないが、安全なところで休んでいる赤ん坊の姿というのは、何の不安も心配も恐れもない、平安というものが具現したものと言えよう。まぁ、所詮それもやがて訪れる嵐の前の静けさでしかないにしてもだ。
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エッサイの家

11月も残すところあとわずか。ふと気付いてみれば、街の中はどこもかしこも、すっかりクリスマスに染まりつつある。今年も変わること無く、またこの時期がやってきたのか、と思ってしまう。とは言っても、心が躍るわけでもなければ、心が重くなるというわけでもない。むしろ冷めているというか、事務的というか、大した感慨もなく迎えていると言った方が正直であろう。それにしても、毎年のように不思議に思うのだが、信仰があるわけでもないのに、なぜ多くの人々はクリスマスにこれほどまで盛り上がることができるのだろうか。その一方で、信仰があるにも関わらず、なぜさほどにテンションの上がらない私がいたりするのだろうか。救い主であるイエス・キリストがこの世に誕生したことを記念する時であれば、なおのこと信仰者としては気持ちの高まりを感じたり、色々と考えることがあったとしても当然なのかもしれないが、どうにもそのような気分にならないのである。もしかしたら、信仰者の理想の在り方とはかけ離れた私の姿なのかもしれないが、果たして私のような感性の持ち主は少ないのだろうか。

何も自分の立場を弁護するわけでもないが、もしかしたらルカの福音を書いた著者も私と似たような思いを持っていたのではないかと考えてしまう。もっとも当時は今のような「クリスマス」という考え方がなかったからだと言えば、それもそうかもしれないのだが、どうやらルカもイエス・キリストが誕生したという事については、さほど強い思い入れがあったようには思えない。もちろん、これは私の勝手な推測でしかないことだけは、改めて言っておくが。
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