カテゴリー : 2015年の作品

みことばを聞く

私も信仰者の端くれであるからには、毎週日曜にはできる限り教会の礼拝に出席するようにしている。礼拝に行く理由はいくつかあるが、神のみことばである聖書を学ぶため、というのもそのうちの一つである。などと、もっともそうなことを口にしてみるのだが……正直に言うと、どうもいけない。賛美が終わって牧師先生の話を聞いていると、だんだんと眠たくなってくるのだ。なんとか目を覚ましていようと思うのだが、眠気が増してくると、どうとでもなれとそのまま眠気に身を委ねてしまう。途中で目を覚ますこともあるが、それならまだマシな方で、場合によっては話が終わって祈りの時間に目を覚ますこともある。まことに申し訳なく思うのだが、ただでさえ寝不足気味なところに、空調が具合良く効いている部屋に座っているのだから、目を覚ましていろという方が難しい。まぁ、言い訳でしかないのだが。

そう言えば、弟子たちでさえもイエスが祈っている時に、居眠りをしていたではないか。イエスが黙っていたのならまだしも、目を覚ましていなさいと言われていたにも関わらずである。それにひとりの青年は、使徒のパウロが話をしているときに眠ってしまい、運悪く三階の窓辺に腰を掛けていたがために、そのまま下まで落ちて死んでしまったこともあった。ついでに言うと、パウロが彼を抱きかかえると、彼は生き返ったというから、まずはめでたしと言うべきか。目を覚ましているべきときに眠ってしまうのは、どうやら私だけではないようだ。もちろん、私の居眠りを正当化するわけではないが、人というものは、どれだけ意識して目を覚ましていようとしても、眠気には勝てないのである。生きているからには、睡眠が必要なのだから、どうしようもない。
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良い地に落ちる

毎年、今くらいの時期になると悩むことがある。買おうか、買うまいか、である。何を、と言えば、そんな大層なものではない。宝くじのことだ。この時期、三つの考えが頭の中を駆け巡るのだ。一つ目、「買わなきゃ、当たらない!」二つ目、「買ったら、もしかしたら当たるかもしれない。」三つ目、「買っても、どうせ当たりっこない……」楽観的だったり、悲観的だったり。ここ最近、宝くじを購入していないことを考えると、どうやら三つ目の考えが他の二つに勝っているのだろう。世間には、当たるか当たらないかは別として、夢を見るために宝くじを買うという人たちもいるようだが、夢を見るために三千円を払うのはもったいないと、ケチな私は考えてしまうのである。夢を見るだけなら、タダでも十分ではないかと思うのだが、落ち着いて考えてみれば、夢を見るだけではなく、その夢を実現させる可能性も手に入れることにもなるのだから、やはり三千円の価値はあるのかもしれない。

しかし、いざ当選番号を確認して外れていることに気付くと、夢は所詮夢でしかなかったのかと、改めて現実の厳しさを思い知ることになるのだ。やはり勿体ないことをしたと、後悔しても遅い。そんなことを考えてしまうと、宝くじなんていうのは、あれやこれやと余計な心配などせずに、その場の勢いや、その時の思いつきに任せて買って、抽選日まで好き勝手に適当な夢を思い描くのが、最たる楽しみ方なのであろう。
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細く長く

仕事であれ勉強であれ何であれ、人から言われて行動するというのは、あまり気持ちの良いものではない。自らの経験からも言えることだが、人から言われてやることは、たいがい長続きしないものである。そもそも、最初からあまり気が進まないことなのだから、途中で頓挫してしまうのも仕方が無いことだろう。まぁ、所詮はただの言い訳かもしれないが。ところがその反対に、言われなくともやるようなことは長続きするものである。それもそのはず、好きでやっていることなのだから、むしろやめろと言われても続けてしまうものだろう。好きこそものの上手なれ、とは言うけれど、好きなことであればそれだけ経験を積むことになるのだから、このことわざの言うことにも一理あるだろう。

もちろんやりたいことだけをやって許されるほど甘い世の中ではない。人から言われることに従わざるを得ないことも往々にしてある。と言うか、現実にはそちらの方に費やされる時間の方が長いかもしれない。誰もいない森の奥深くに住んでいるのであれば話は別かもしれないが、多くの人々に囲まれ、様々な制度に組み込まれて生きているのだから、気の進まないことを避けては通れない。
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背負っているもの

世の中の多くの人々が背負っているものがある。さて、何であろう。罪、だろうか。いや、そうではない。聖書の視点から見れば、すべての人々は罪を背負っているのだから、それを負っていない人々もいることを考えれば、罪ではないことは確かである。さてついでに言えば、これは個人だけではなく、法人が負っている場合がある。それどころか、教会でさえも負っていることがある。何かと言えば、借金、である。ローンだとか融資だとか、言い方は色々あるだろう。純粋な借金からクレジットカードでの買い物まで、その形態も様々である。手段や印象の違いこそあれ、乱暴な言い方をすれば、他人の財布をあてにしていることに違いはない。あまり理想的な経済活動ではないかもしれないが、家にでっかい金庫があって、現金がじゃぶじゃぶしているのでない限りは、順当なことなのだろう。また借金ができるということは第三者からも信用されているということの証拠でもあるというから、便利なのか複雑なのか、それが今の世の中の仕組みというものだろう。

例えば、現金で家を買う人はあまりいないだろう。ほとんどの人は住宅ローンを組んで銀行からお金を借りて、そのお金で支払うに違いない。私もまだあと十数年ほど残っているわけだが。もちろん、自分の家は自分の所有物であって、その利用に関しては自分の思いのままにすることができることに違いはない。だけれども、借金の返済が滞り、銀行から信用されなくなったら、銀行はいつでも私から家を取り上げることができるのだ。いわゆる抵当権というものであるが、これが設定されている限りは、自分のものであっても完全に自分の自由にできるわけでもないのである。借金を完済して、抵当権を抹消しない限りは、本当に自分のものにはならないのである。自由への道は遠いのだ。
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ヨハネの疑問

キリスト者と自認しているわりには、熱心とはほど遠く、どちらかと言えば生温い信仰しか持っていない私ではあるが、聖書六十六巻が神のことばであるということについては微塵も疑いを持っていない。とは言っても、そこに書かれていることに何の疑問も抱かないというわけでもない。私はそれほど純真な人間ではない。むしろ物事を懐疑的に見てしまうような人間である。だから仕方が無いと言えば、仕方が無い。神のことばであることは疑っていないにしても、そこに書かれていることを疑ってしまうということは、つまり神を疑っていることになってしまうのだろうか。いや、自分を弁護するわけではないが、それもちょっと違うような気がする。

たとえば、有名な箇所であるが、聖書にはこう書かれている。「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」(創世記1章1~3節)天地創造の話である。神が世界を創造されたということを、私は疑っていない。そのやり方が具体的にはどのようなものであったのかについては、何も書かれていないから何とでも解釈することができよう。神が文字通り光を創られたのか、それともすべての物質とエネルギーの爆発的な膨張を起こしたのか……いずれにせよ宇宙には始まりがあり、その始まりに神がおられたということを私は信じている。
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