タグ : キリスト

金曜の夜

金曜の夕方がやってきた。一週間の終わりである。色々と課題は残ったままだけれども、ひとまずそれはそれで置いておくとしよう。一度に全部を片づけることなどできない。時間を掛けて少しずつ片づけていけばよい。ひとまず直近で早々に対処しなければならないことさえ終わっていれば問題ない。積み残しがあったとしても、誰かが著しく困るわけでもなければ、ましてや世界が終わるわけでもない。ということを考えつつ家に帰る。気分転換をしたり、気晴らしをしたり、疲れを癒したり。そんな気持ちになる。たとえば、帰りにデパートの地下でもスーパーでもコンビニでも構わない、何やら気の利いた惣菜でも買って、それを肴にビールかワインか日本酒を少しばかり……あぁ、スモークチーズなんて、どれにでも合いそうだなぁ。そして、なんとなくテレビで放映されている番組で面白そうなのを見るとか、DVDを借りてきて前々から見たかった映画を見るとか……なんせ見たい映画がいっぱいあるので選ぶのに困ることはないだろう。そうやって難しいことを考えずに、気の向くままに過ごして、最後は眠くなったら寝る。なんて、そんな贅沢なことをしてみたい。たいしてお金が掛かるような贅沢ではない、金曜の夜に限ってでも構わない、ほんの数時間の余裕があれば簡単に得られるものである。とは言っても、それだけの数時間を手に入れることができないのが、現実である。

まぁ、そんなことをぼやいたところで仕方がない。時間がないというのは、所詮ただの言い訳にしか過ぎないのかも。考えてもみれば、時間というのは誰にでも同じだけ与えられているはずだ。それを足りないとか、自由に使えないとか感じるのは、要するに自分の時間の使い方がマズいだけなのかもしれない。
続きを読む

絶対ない

絶対ない、ありえない。そのように始めから何かを決めつけるかのようなものの言い方は良くないとは、広く言われていることであろう。とは言え、世の中には可能性がゼロではないにしても、限りなくゼロに近い物事はそれなりにあるだろう。ところで私のヘンな趣味のひとつに、そのような限りなく「ありえない」ようなことがもし起こったらどうなるだろうか、と考えることがある。まぁ、しょうもない妄想だと思って構わない。

例えば、先日実家の庭木の剪定を手伝いに行ったのだが、ゴミに出し易いようにと、切り出した太い枝から細い枝を掃っていると、手にしていた枝がだんだん棍棒みたいになってきた。そんな自家製の棍棒を見ていたら、ふとこんなことを考えてしまったのだ。もし、今ゾンビが襲ってきたら、この棍棒で戦うことができるだろうか、なんてことを。いや、ゾンビがどれほど強いのかまったく見当もつかないが、さすがに木の棍棒でぶっ叩いても、たいしたダメージを与えられそうにないような……ここはやはり、棍棒に釘とか何らかの金属片を打ち込んで、もっと打撃力を上げた方がよいだろうか。でも、釘が抜けちゃったらどうしようか、そうか、穴を開けて、ぶっといボルトを通してナットで固定すればそんな心配もないか……いや、そもそもゾンビなんていないじゃないか、なんて夢の無いことは考えない。ゾンビを見たことがないだけであって、だからと言ってゾンビがいないというわけでもないだろう。なんてことを考えてしまうのだ。わずかでも可能性があるとすれば、それが限りなくゼロに等しいものだとしても、「絶対にありえない」とは言い切れまい。
続きを読む

ペテロの不安

ここしばらく、最後の晩餐の場でイエス・キリストが弟子たちに語ったことを見てきた。イエスが弟子たちと最後に過ごす晩に彼らに語ったことは、イエスにしてみれば、どうしても弟子たちに聞いておいてもらいたい、彼らに知っておいてもらい、とても重要なものであったろう。イエスはこの夜が彼らと共に過ごす最後になるのを知っていたのだから、どうしてもこれだけは伝えておかなければならないと、そう考えていたに違いない。イエスでなくとも、誰でも今日が最後であることを知っていれば、大事なことを後に残る人々に伝えておきたいと考えるはずだ。例えば、仕事の引継ぎなども同じようなものだろう。私がそれまでやってきたことを、次に担当する人に伝えておくというのは、当然のことだ。さもないと、何かと支障が出てしまう。イエスは神の国の福音を伝えるという、重大な責務を負っていたのだからなおさらだ。

ところでその食事の時に、イエスはシモン・ペテロに呼びかけてこう言った。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカの福音書22章31~32節)
続きを読む

誰が一番偉いのか

イエス・キリストが最後の食事の場において、最も身近な弟子たちに、今日まで続いている聖餐式の意義を教えたその後のことである。弟子たちは彼らの師であるイエスの話を聞いて、その意味について真剣に考えたり、その内容について話し合ったかであろうか。この箇所を読んで分かることは、彼らは宮殿で人々が大勢集まる中でイエスの話を聞いていたわけでもなければ、夜の静けさに包まれる荒野で彼らだけがイエスと共に休もうとしている時にイエスが語るのを聞いたわけでもない。過越の食事をしているときに、この話を聞いたのである。さすがに彼らがぶどう酒を飲んでべろんべろんに酔っていたとも考えられないが、酒に酔わなくとも雰囲気に酔うということはあるだろう。それこそ年に一度の祭の時の食事とあれば、さすがに彼らも今で言うところの、テンションが上がっていたかもしれない。イエスの言うことも耳にしたとしても、あまり真面目には考えていなかったようである。

それというのもその時の彼らの話題は、果たして誰が師を裏切るかということと、彼らの中で誰が一番偉いかということであった。前者はイエスが「見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。」(ルカの福音書22章21節)と言ったことに理由があるのは分かる。しかしなぜ後者の話題になったのかは、分からない。これは私の憶測でしかないが、誰かがイエスを裏切るということは、すなわち彼らに対して仇をなす者が出てくるということである。だとすれば、その反対に彼らの中でもっともすぐれた者がいたとしても、不思議なことではないだろう。人というものは、何かと他人と比べたくなってしまうものである。弟子たちとて、イエスと出会うまでは普通に生活してきた人たちである。そのように考えたとしても、仕方のないことであろう。
続きを読む

迫害されていない時こそ

我が国、日本におけるクリスチャンの人数が人口の1パーセントにも満たないというのは、今さら言うまでもないだろう。なぜなのか、考えてもみれば不思議なことである。中東のイスラム諸国や、北朝鮮のような権威主義体制が敷かれている国々においては、国家や体制が定めた中での限定的な信仰が認められているか、もしくは信仰の自由などまったく認められていないというのが現実である。普段はあまり考えないが、キリスト教に対する迫害というのは、今現在も続いているのだ。ある米国のNPOの調査によると、クリスチャンに対する迫害が最も激しいのは、イスラム主義が主流の中東の国々ではなく、実は日本の隣にある北朝鮮であるという。

幸いにも海をひとつ隔てた我が国では、信教の自由が以下の通り憲法で保障されている。「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」(日本国憲法第20条第1項)当然ながらクリスチャンであるということで迫害されることは、まずない。実際、私は自身の信仰を別段隠しもせずに公けにしているが、それが原因で他者から否定的な反応をもらったことがない。珍しいとか、意外だとか、場合によってはなぜだか褒められたりとか、肯定的に見られている。
続きを読む