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神なき神のすまい

イエス・キリストは情が厚い人だった。彼は喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しむ、そのようなお方だった。神はけして雲の上の高みから人々の営みを眺め、地上の人々がどのように感じているかということに無頓着なお方ではない。神はイエス・キリストというひとりの人として、この地上で人々と共に生活し、人々の喜怒哀楽を分かっているのである。またそのような人々の思いに共感される心の持ち主であった。私などは情が薄く、人がどう感じていようと、それはその人の問題であって私の問題ではないから、と無関心でいるだろう。要するに私にとって人の喜怒哀楽というのは、どうでもよいことなのである。ことさらそれで不便を感じたこともなければ、申し訳ないと考えたこともないので、まぁ、これが私の性格なのだろうと思う。救い主であり神でもあるイエス・キリストが私のような薄情ものでないことは幸いである。

さて、イエス・キリストの情というのは、彼の周りにいる人々に対しての慈しみとか、哀れみとか、そのようなものに端を発していることが多いように思われる。もちろん、彼が情に流されやすいとか、そういう単純なことではないだろう。おそらく彼にとっては、彼自身がどのように感じているかということよりも、周りの人々の思いに心が向いてしまうだけなのかもしれない。自分の思いや感情を抑えているというわけでもないだろうが、どちらかと言えば他人の気持ちに共感すること、他人の思いを知ろうとすることを大事にしていたのだろう。
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覚悟を決めて

昭和四十七年から今日に至るまでずっと富岡に住んでいる―まぁ、途中で数年ほどアメリカに住んでいたのを除くとして―私にとっては、電車と言えばやはり京急線が一番身近な存在である。最寄に他の路線がないので、車を使わないのであれば、出掛けるときは京急以外の選択肢はない。JRと比べて滅多なことでは止まらないし、かなり遅い時間まで走っているので、ありがたいことにこれといって不便に感じたことがない。昔は赤い車体に白い線がお馴染みであったが、今は青色だったり、黄色だったり、未塗装のステンレス合金のままだったりと、バリエーションが豊富になっている。

電車の運行の種類も増えたもので、夜の下りしか運用されていなかったウィング号が、今では朝の上りでも運用されるようになった。朝は時間の都合もあって、ウィング号に乗るような機会はないのだが、都内での仕事があった帰りには、京急品川駅3番線でウィング号が発車待ちで停まっているのを見ると、つい乗ってみようかと考えてしまう。たったの三百円で上大岡まで座って帰れるのであるから、それは便利だ。だが、私は滅多なことでは乗らないのである。いや、チケット代の三百円を惜しんでいるわけではない。いくらけちな私でも、そこまでどけちではない。実は、品川から上大岡まで停まらないというウィング号の一番の売りが、私が乗らない一番の理由なのである。途中停車しないということは、つまり途中でトイレに行けないということだ。東海道線なんかはトイレがあるから安心なのだが、京急ではその安心がない。京急にしてみれば、そんな長距離を走るわけではないのだから、わざわざ設置しようなどとは思わないだろう。いずれにせよ乗客が途中下車をすれば済む話だと言われたら、それはそれで納得できるのだが。
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宴に招かれ

久しぶりにペンを取る……なんてちょっとばかり知的なフリをして、そんな言葉を言ってみたいところであるが、残念ながら私の場合はちょっと違うか。ともあれ改めて考えてみれば、最後にこれを書いたのは去年の夏の終わりの頃だったような。ところがどうであろうか、気づいてみたら、まだ朝晩は寒さを残すものの日差しに暖かさを感じられる陽気になっているではないか。半年近くも何も書かないで過ごしてきたわけだ。いや、何も書かなかったというのは言い過ぎかもしれない。もちろん事務的なものや実務的なものは多く書いてきたわけだが、自分の考えだけをネタにして、ゼロから書いていくという、創造的なものは原稿用紙一枚ほども書いていなかったということである。

それにしても、久しぶりにこのように書いていると、ふと妙な感覚に捕らわれてしまう。うまくは言えないが、何やら敗北感とでもいうような、誰かに、もしくは何かに負けたような気持になってしまうのだ。もちろん、人と争っているわけでも、誰かと競っているわけでもない。そんなのは明らかである。そうは言っても、遅れをとったように感じられるのだ。おそらくであるが、休むことなく創造的なことを書き続けたであろう、実在しないもうひとりの自分に対して引け目を感じているのかもしれない。そのもう一人の自分は、現実の私よりも、六か月の間休まずに書き続けたことによって何かを得ているに違いない、それが何かは現実の私には分からないが。もちろん、私だって単に面倒くさくなって書かなかったわけではない。仕事が忙しくて書けなかっただけだ。しかし、結果として何もしなかった私よりは、何かをした私のほうが、少なくとも何らかの達成感は得ていることだろう。
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幸いとは

ある時、人にこう聞かれたことがある。今までの私の人生において、一番幸せだった瞬間とはいつであったか、と。質問の意味は難しいものではない。文章的に考えると、なんのひねりもひっかけもない、実に単純な問いである。ところでもし、私が同じ問いを人にしたのであれば、果たしてその人は何と答えるであろうか。すぐに答えることができるであろうか。ちなみに、私はこの質問にすぐ答えることができなかった。しばらく考えてはみたものの、やはりそれでも答えることはできなかった。しかたないので、そんな瞬間があったのかどうか分からない、そう答えるのがせいぜいだった。すると、その人は呆れてしまったのか、他の話題に会話を移してしまった。

たしかに字面だけを見れば簡単な内容のようであるが、ちょっと考えてしまうと、それほど答えるのに容易な質問ではないのが分かってくるからだ。少なくとも私にはそう思われるのだ。まず、この質問をされること自体、今の私が幸せでないことが前提になっている。もしかしたら、私は今のこの時に幸せだから、過去のある瞬間において幸せだったということができないかもしれないではないか。また今までの私の人生を振り返るなんて、とてもじゃないが、無理なことである。赤ん坊の頃の記憶などないわけだから、過去の瞬間をそれぞれ比較して、どの部分が幸せで、どの部分がそうではなかったなどと、そんな短時間で答えられるわけがない。いや、時間がどれだけあったところで忘れた記憶など取り戻せないから無理だろう。また、こうも考えることもできよう。確かに自分の過去において、良かったと思えることがあったとしよう。しかし、そのことの結果が常に良いものであり続けたかどうか言えば、案外そうでもなかったりするのが、私の経験から導き出した真実である。であるとすれば、その良かったと思えることが、本当に幸せと言い切ることができるのか、どうしても疑問に思えてしまうのだ。
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短い祈り

腹が減るのは精神衛生上あまりよろしくないだろう。それというのも、腹が減ると怒りっぽくなってしまうからだ。ダイエットは悪いことではないにしても、あまりやる過ぎるのも問題であろう。だから私は無茶なダイエットなどしない。食べたいものがあれば食べ、飲みたいものがあれば飲み、余計な我慢などせずに手を出すのが一番である。もちろんあまりお金を掛けないでだけど。つまり不要なストレスを溜め込まないのが、健康になるための方法の一つであろう。そう私は考えている。が、ストレスが溜まらないのは確かなのだが、あまり健康になった気がしないのは、なぜだろうか。ストレスの代わりに、脂肪が溜まっているからだろうか。梅雨が明けたら夏である。夏が終わると、人間ドックである。このままだと、色々と困ったことになりそうな予感がしてならない。

そう言えば、空腹の時に食べ物を見せられると、じっとしていることができない。そう感じているのは、果たして私だけであろうか。ある週末、一日の終わりで私が腹を空かせていたとしよう、そんな私が見ているところで妻が唐揚げを作っている。ちょうど揚がったばかりの唐揚げがキッチンペーパーの上に並べられている。熱いのは分かっているが……手を出さずにはいられない。が、手を出そうとすると、妻が慌てて私を止めるのだ。唐揚げの一つくらいつまみ食いしたっていいじゃないか、え?まだ出来てないって?おいしく仕上げるには二度揚げが必要だって?そんじゃあ仕方ない、ここはおとなしく我慢しよう、二度揚げが終わるまでは。さすがに半生の鶏肉を食べるほど飢えてはいない。どうも腹が減って食べ物を前にすると、食欲が何ものにも勝ってしまうようである。食前の祈り?そんなもん知らんわ、唐揚げが冷めちゃうじゃないか、そう感じることがないとは言えないのが実際である。
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