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帰ってきたペテロ

何が大変かと言えば、毎度のことだが、「これ」の書き出しをどうするかということだ……。いきなり本題、つまりは聖書の話から入ることもできるのだが、そうすると真面目になり過ぎてしまうような気もするし、いかにもな雰囲気にになってしまいそうで、どちらにしてもかたくるしいものと思われてしまい、そうなると興味を持ってもらえないのではないか、つまり読んでもらえないのではないか、などと考えてしまうのである。そういえば牧師さんも礼拝のメッセージの前にジョークなり、小話を語ったりするものだが、なんとなくそうする牧師さんの気持ちも分からなくもない。わざわざ最初から敷居を高くしてしまうこともないだろう。むしろ敷居を低くしておいて、話の聞き手なり読み手なりの注意を引き付けておきたいものである。本題で伝えたい肝心なところにたどり着く前に、相手の興味が失われしまっては元も子もないというものだろう。

それにしても、毎回ネタを考えるのは難しい。毎日の生活の中での思ったことや気付いたこと、見たことや聞いたことから、これぞというものを探そうとするのだけれども、いざ書こうとすると何も思い浮かばないこともある。さすがに、手持ちのネタも底を尽いている今日この頃である。頑張って何とか捻り出そうと苦労しているのだ。今さらだが、気になったことをその都度書き留めておけば、後から役に立てることができそうなことは分かっているのだが、実際はそうするわけでもない。私の問題は、せっかく思いついた物事を忘れてしまうということもさることながら、いや、もしかしたらそれよりも根が深いのは、忘れてしまう自分に気付かないことだろう。「良いこと思いついた!次はこのネタを使おう!」とその時は妙な自信たっぷりなのだが、後から「ありゃ、何だったかな?」となってしまうのである。
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三度まで

「あなたは信仰を捨てることができるか。」もしこのように聞かれたら、私は何と答えるだろうか。おそらく私はこう答えるだろう。「いや、信仰を捨てることなどできない。」

しかしながら、そう答えたからと言って、必ずしも私が信心深いかと言えば、そういうわけでもないように思われる。それというのも、信仰を捨てる必要もなければ、信仰を捨てたいという特別な理由があるわけでもないから、信仰を捨てないだけだからだ。どちらかと言えば、消極的な理由でしかない。もしくは、神の存在しない世界など考えることができないほどに、信仰が当然のものになっているからとも言えるかもしれない。先に挙げた理由よりは、少しは真面目な理由かもしれないが、やはりこれもどちらかと言えば消極的であることに変わりはないだろう。いずれにしても、私の信仰が受け身に近いものであることが分かってしまいそうなものである。私が信仰を持ち続ける理由は、私が神を熱心に求めているからとか、神のみことばである聖書に従って生きようと願っているからとか、そのような積極的な態度ではない。
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絶対ない

絶対ない、ありえない。そのように始めから何かを決めつけるかのようなものの言い方は良くないとは、広く言われていることであろう。とは言え、世の中には可能性がゼロではないにしても、限りなくゼロに近い物事はそれなりにあるだろう。ところで私のヘンな趣味のひとつに、そのような限りなく「ありえない」ようなことがもし起こったらどうなるだろうか、と考えることがある。まぁ、しょうもない妄想だと思って構わない。

例えば、先日実家の庭木の剪定を手伝いに行ったのだが、ゴミに出し易いようにと、切り出した太い枝から細い枝を掃っていると、手にしていた枝がだんだん棍棒みたいになってきた。そんな自家製の棍棒を見ていたら、ふとこんなことを考えてしまったのだ。もし、今ゾンビが襲ってきたら、この棍棒で戦うことができるだろうか、なんてことを。いや、ゾンビがどれほど強いのかまったく見当もつかないが、さすがに木の棍棒でぶっ叩いても、たいしたダメージを与えられそうにないような……ここはやはり、棍棒に釘とか何らかの金属片を打ち込んで、もっと打撃力を上げた方がよいだろうか。でも、釘が抜けちゃったらどうしようか、そうか、穴を開けて、ぶっといボルトを通してナットで固定すればそんな心配もないか……いや、そもそもゾンビなんていないじゃないか、なんて夢の無いことは考えない。ゾンビを見たことがないだけであって、だからと言ってゾンビがいないというわけでもないだろう。なんてことを考えてしまうのだ。わずかでも可能性があるとすれば、それが限りなくゼロに等しいものだとしても、「絶対にありえない」とは言い切れまい。
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ペテロの不安

ここしばらく、最後の晩餐の場でイエス・キリストが弟子たちに語ったことを見てきた。イエスが弟子たちと最後に過ごす晩に彼らに語ったことは、イエスにしてみれば、どうしても弟子たちに聞いておいてもらいたい、彼らに知っておいてもらい、とても重要なものであったろう。イエスはこの夜が彼らと共に過ごす最後になるのを知っていたのだから、どうしてもこれだけは伝えておかなければならないと、そう考えていたに違いない。イエスでなくとも、誰でも今日が最後であることを知っていれば、大事なことを後に残る人々に伝えておきたいと考えるはずだ。例えば、仕事の引継ぎなども同じようなものだろう。私がそれまでやってきたことを、次に担当する人に伝えておくというのは、当然のことだ。さもないと、何かと支障が出てしまう。イエスは神の国の福音を伝えるという、重大な責務を負っていたのだからなおさらだ。

ところでその食事の時に、イエスはシモン・ペテロに呼びかけてこう言った。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカの福音書22章31~32節)
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愛を知らぬ

これは私の個人的な感想でしかないから、もしかしたら間違っているかもしれない。だが、少なくとも私はそのように感じているのだから、結局のところ、私の主観的な考えでしかない。同意を求めようとも思わないし、人を納得させようとも思わない。

さてそれが何であるかというと、賛美には二種類あるのではないかということだ。ひとつは、神が主体となっているものであり、必ずというわけでもないだろうが、どちらかと言えば聖歌とか讃美歌とか、古くから伝わっている賛美に多いのではないかと思う。例えば「驚くばかりの恵みなりき」とか「主われを愛す、主は強ければ」とか「慈しみ深き、友なるイエスは」という賛美に歌われているように、神はどのようなお方であるのか、神は何をなされたのか、などのように神について歌われている賛美である。そしてもうひとつは、人間が主体となっているものである。神を賛美するための歌であるのに人が主体となっているのもどうかと思うが、比較的新しいワーシップソングに多いような印象を受ける。例えば「御名を掲げて、あなたをたたえます」とか「あなたの心もとめて、御前に出る」というように、人が何をするか、どうするか、などのように人間の立場から神に対しての行いや思いを歌っている賛美である。前者を歌うことには抵抗はないのだが、後者を歌うのは時に戸惑うこともある。何にもまして「主よ愛します」というような言葉が含まれている賛美が、私は一番苦手だ。
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