タグ : マルコ

神なき神のすまい

イエス・キリストは情が厚い人だった。彼は喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しむ、そのようなお方だった。神はけして雲の上の高みから人々の営みを眺め、地上の人々がどのように感じているかということに無頓着なお方ではない。神はイエス・キリストというひとりの人として、この地上で人々と共に生活し、人々の喜怒哀楽を分かっているのである。またそのような人々の思いに共感される心の持ち主であった。私などは情が薄く、人がどう感じていようと、それはその人の問題であって私の問題ではないから、と無関心でいるだろう。要するに私にとって人の喜怒哀楽というのは、どうでもよいことなのである。ことさらそれで不便を感じたこともなければ、申し訳ないと考えたこともないので、まぁ、これが私の性格なのだろうと思う。救い主であり神でもあるイエス・キリストが私のような薄情ものでないことは幸いである。

さて、イエス・キリストの情というのは、彼の周りにいる人々に対しての慈しみとか、哀れみとか、そのようなものに端を発していることが多いように思われる。もちろん、彼が情に流されやすいとか、そういう単純なことではないだろう。おそらく彼にとっては、彼自身がどのように感じているかということよりも、周りの人々の思いに心が向いてしまうだけなのかもしれない。自分の思いや感情を抑えているというわけでもないだろうが、どちらかと言えば他人の気持ちに共感すること、他人の思いを知ろうとすることを大事にしていたのだろう。
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世界の果てまで

久しぶりに筆を執る……いや、文字通り筆やペンを手にして、何かを書くというわけではない。もののたとえとして言ったまでだ。久しぶりに家のパソコンのキーボードを叩くと言うと、ちょっと味気ないと思ったまでだ。が、本当のことを言うとそれだけでもない。筆を執ると言うと、なんかそれっぽくて、どことなく知的な雰囲気をただよわせるような。そんなわけで、せめて一度くらいは使ってみたかっただけと言えないこともない。もっともどれほど賢そうな振りをしても、そうではないことは自分自身が重々承知している。もしかしたら、もう見破られているかもしれないから、無駄なあがきはなるべき控えた方がよいだろう。さて、つまらぬ前置きはそれくらいにして、本題に入らせて頂こう。

しばらくの間、マルコの福音を見てきたのだが、気付いてみれば、この福音書も終盤を迎える。最後にイエスはこのように弟子たちに語っている。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコの福音16章15~18節)
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沈黙と叫び

神は人の祈りに、必ず答えて下さる。クリスチャンであれば、例外なくそのように言うだろう。信心深いとは言えない、私のようなひねくれた信仰者であっても、それを疑ったことはない。では神が我々の祈りに必ず答えて下さるというのであれば、どんなことでも神に願い出れば実現するのか、そう人から問われたら、それとはちょっと違うと私は答えるだろう。もちろん、それは神が私たちの祈りを無視しているというわけでもないし、願いを実現するだけの力を持っていないというわけでもない。神は祈りに対して、私たちが望んでいるような方法で答えることもあるだろうし、私たちが嬉しく思わない方法で答えることもある。それどころか、あえて「黙っている」という方法で答えることもある。

神には遠く及ばないような私でさえも、状況に応じて、相手に「はい」と言ったり、「いいえ」と言ったり、もしくは黙ってやり過ごすくらいの知恵はあるのだ。相手の要望に何でも「はいはい」と答えるほどお人好しでもない。例えばの話である。もし私の娘がスマホが欲しいと言ったとしよう。当然ながら私の答えは「必要ないでしょ」である。では彼女がアイスが食べたいと言ったらどうだろう。私は「いいよ」と買い物に出掛けるだろう。どちらにしても、私なりの理由があっての対応である。ましてや私の髪の毛の数さえ知っておられる神である。何が良くて、何が悪いかを理解しておられるお方である。その判断を疑うことはないだろう。さて祈りの答えが「いいよ」だとしても「ダメだよ」だったとしても、何らかの形になって表れるのであれば、良くも悪くも祈りが答えられたと実感することができる。だがやっかいなのは神が黙っておられる時である。こちらとしては、どう反応すべきなのか判断に迷う。そうは言っても、神の沈黙には必ず何らかの理由があるのだろう。
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三つ目の道

「問題です。」はてクイズか何かであろうかと思う。

「問題です!」すわ一大事となってしまう。

前者であれば、特に気にすることもないが、後者の場合だと、人によって反応が分かれるところだろう。「大変だ!どうしよう!」とうろたえる人もいれば、「まぁ、何とかなるだろう」と落ち着いた人もいる。やや無理があるのは分かるが、もし二つに分けるとすれば、悲観的に捉える人と、楽観的に捉える人となるだろう。自分は果たしてどちらなのだろうか。例えば、何かを思い悩んでいる人を見掛けたとしよう。いざその人の話を聞いてみれば、何をその程度のことで暗い顔をしているのだと思うことがある。そんなちっぽけなことで悩んだって仕方がないだろうと。どうでもいいじゃないかと。そう考えてみると、私は楽観的な人間なのかもしれない。だが物の見方を変えてみれば、私はその人と同じことを今まさに悩んでいるわけではないから、無責任かもしれないが、他人事だと思って冷静すぎるほどに落ち着いて考えることができているだけかもしれない。それを楽観的と言うのは、ちょっと何かが違うような気がしなくもない。
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嫌なことから

誰しも嫌なことから逃げ出したいと思う気持ちは一緒だろう。私にしても同じである。嫌なことはなるべくなら避けたいことだし、避けられないのであれば、せめてもう少し先に延ばしたいと思うのではないだろうか。あまり褒められたものではないだろうが、そうして今までやってきたのである。それどころか、嫌なことの前に、まずは楽な道を選んでしまうのである。だがそれは嫌なことから目を逸らせているだけで、残念ながら、それが消えて無くなるというわけではないのだ。

であれば、逃げずに立ち向かえば良いではないか、と言われてしまうかもしれない。まぁ、それが出来れば苦労はしない。しかし文句のひとつも言わずに、心の底から望んでそのようなことをする人もいないだろう。もし、そのような人がいたら、驚きこそするが、自分もそのようになりたいとは願わないだろうと思う。そんなことをしたら、嫌なことを嫌なことと気付かない人間になってしまいそうだ。賢しいことかもしれないが、逃げる知恵というのも、必要かもしれない。と、結局のところは、私の言い訳でしかないのかもしれないが。現実的に考えれば、嫌なことでも黙って耐えるのが、私にできる精一杯なのではないだろうか。逃げもしなければ、あえて向かっていくこともせず、ただそれがやってくるのを待つだけだ。
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