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上から下まで真っ二つ

「わが日の本は島国よ」と聞いて、生まれながらの横浜市民ならその先を続けられるに違いない。私などは小学生の頃に何度も何度も歌ってきたから、四十歳を過ぎた今でも覚えているくらいだ。横浜市歌でも歌われているように、日本は四方を海に囲まれた島国である。さらにそれだけでなく、東西に狭く南北に長い。ほぼひと月ぶりに猛暑日と観測された場所がゼロになったかと思ったら、同じ日に北海道では初雪が観測されたという具合である。そんな日本の地形が頭にあるから、ついこのような勘違いをしてしまう私である。「海岸線を持たない県はなかったんじゃないかな。」申し訳ない、地理は昔から苦手なのである。そこでちゃんと数えてみると、日本には海と接していない県が八県あることに気付く。もっとも47都道府県のうち8県であるから、やはり少ないことには違いないか。それに滋賀県には海がないと言っても、日本最大の湖である琵琶湖があるから、ちょっと他とは違うかもしれない。そういえば、琵琶湖ってまだ行ったことがないな……。

ところでそんな内陸県のひとつ、栃木県で3週間ほど過ごして帰ってきたのだが、やはり横浜に帰って来て、駅から自宅への帰り道、階段を上りきったところで振り返って景色を眺めて、街並みの向こうに改めて海を目にすると不思議と安心を覚えるのだ。考えてもみれば人間の体の大半は水で出来ているという。それに一つの学説としての進化論では生命の起源は海にあるというし、また聖書に従えば「神は『天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。』と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた」(創世記1章9〜10節)とあるように、あらゆる生き物に先だってまずは海を創造されている。どうやら、海と人とは切っても切れない関係にあるのだろうか……というのは、私だけが思っていることかもしれないが。
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ピラトとヘロデの見たもの

イエスが捕らえられた当時、ユダヤ地方を実効支配していたのはローマ帝国であった。そのようなわけで、祭司長たちに捕らえられたイエス・キリストは、一晩は祭司長の家に留め置かれたものの、翌朝にはローマから派遣されていた総督ピラトのもとに連れて行かれた。総督の屋敷で祭司たちは「イエスについて訴え始めた。彼らは言った。『この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。』」(ルカの福音書23書2節)

ふむ、なんだかおかしくはないか。そう思うのは私だけであろうか。なぜ、彼らはわざわざピラトのところにやってきたのか。しかも、ここにきて「カイザルに税金を納めることを禁じ」て民衆を煽っているなどと、あたかもイエスがローマ帝国に対して仇をなそうとしているかのように訴え出ている。これはどう考えても言いがかりだろう。むしろイエスは税金を納めるようにと言っているではないか。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。」(マルコの福音書12書17節)しかも、イエスを訴えている祭司長たちの仲間に対して言ったことばである。訴えている人たちが嘘をついているのは明らかである。つまりそうでもしなければ、イエスを罪に定めることができなかったのだろう。自分たちの手を汚すことなく、イエスの処罰をローマの役人であるピラト、ひいてはローマに任せようとしているかのようである。卑怯と言えば、まさにその通り。イエスに対して恨みがあるのなら、ローマを頼らずに自分たちでかたを付ければよいであろうに。そうしようともしない。自分たちに何らかの責任が降り掛かるのを恐れているかのようである。
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神なき神のすまい

イエス・キリストは情が厚い人だった。彼は喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しむ、そのようなお方だった。神はけして雲の上の高みから人々の営みを眺め、地上の人々がどのように感じているかということに無頓着なお方ではない。神はイエス・キリストというひとりの人として、この地上で人々と共に生活し、人々の喜怒哀楽を分かっているのである。またそのような人々の思いに共感される心の持ち主であった。私などは情が薄く、人がどう感じていようと、それはその人の問題であって私の問題ではないから、と無関心でいるだろう。要するに私にとって人の喜怒哀楽というのは、どうでもよいことなのである。ことさらそれで不便を感じたこともなければ、申し訳ないと考えたこともないので、まぁ、これが私の性格なのだろうと思う。救い主であり神でもあるイエス・キリストが私のような薄情ものでないことは幸いである。

さて、イエス・キリストの情というのは、彼の周りにいる人々に対しての慈しみとか、哀れみとか、そのようなものに端を発していることが多いように思われる。もちろん、彼が情に流されやすいとか、そういう単純なことではないだろう。おそらく彼にとっては、彼自身がどのように感じているかということよりも、周りの人々の思いに心が向いてしまうだけなのかもしれない。自分の思いや感情を抑えているというわけでもないだろうが、どちらかと言えば他人の気持ちに共感すること、他人の思いを知ろうとすることを大事にしていたのだろう。
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世界の果てまで

久しぶりに筆を執る……いや、文字通り筆やペンを手にして、何かを書くというわけではない。もののたとえとして言ったまでだ。久しぶりに家のパソコンのキーボードを叩くと言うと、ちょっと味気ないと思ったまでだ。が、本当のことを言うとそれだけでもない。筆を執ると言うと、なんかそれっぽくて、どことなく知的な雰囲気をただよわせるような。そんなわけで、せめて一度くらいは使ってみたかっただけと言えないこともない。もっともどれほど賢そうな振りをしても、そうではないことは自分自身が重々承知している。もしかしたら、もう見破られているかもしれないから、無駄なあがきはなるべき控えた方がよいだろう。さて、つまらぬ前置きはそれくらいにして、本題に入らせて頂こう。

しばらくの間、マルコの福音を見てきたのだが、気付いてみれば、この福音書も終盤を迎える。最後にイエスはこのように弟子たちに語っている。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコの福音16章15~18節)
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沈黙と叫び

神は人の祈りに、必ず答えて下さる。クリスチャンであれば、例外なくそのように言うだろう。信心深いとは言えない、私のようなひねくれた信仰者であっても、それを疑ったことはない。では神が我々の祈りに必ず答えて下さるというのであれば、どんなことでも神に願い出れば実現するのか、そう人から問われたら、それとはちょっと違うと私は答えるだろう。もちろん、それは神が私たちの祈りを無視しているというわけでもないし、願いを実現するだけの力を持っていないというわけでもない。神は祈りに対して、私たちが望んでいるような方法で答えることもあるだろうし、私たちが嬉しく思わない方法で答えることもある。それどころか、あえて「黙っている」という方法で答えることもある。

神には遠く及ばないような私でさえも、状況に応じて、相手に「はい」と言ったり、「いいえ」と言ったり、もしくは黙ってやり過ごすくらいの知恵はあるのだ。相手の要望に何でも「はいはい」と答えるほどお人好しでもない。例えばの話である。もし私の娘がスマホが欲しいと言ったとしよう。当然ながら私の答えは「必要ないでしょ」である。では彼女がアイスが食べたいと言ったらどうだろう。私は「いいよ」と買い物に出掛けるだろう。どちらにしても、私なりの理由があっての対応である。ましてや私の髪の毛の数さえ知っておられる神である。何が良くて、何が悪いかを理解しておられるお方である。その判断を疑うことはないだろう。さて祈りの答えが「いいよ」だとしても「ダメだよ」だったとしても、何らかの形になって表れるのであれば、良くも悪くも祈りが答えられたと実感することができる。だがやっかいなのは神が黙っておられる時である。こちらとしては、どう反応すべきなのか判断に迷う。そうは言っても、神の沈黙には必ず何らかの理由があるのだろう。
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