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永遠に生きること

神がなさった良いこと。今ひとつは、永遠のいのちを約束してくださっていること。

ところで永遠のいのちと言っても、神が与えられるそれは、いわゆる不老不死というものではない。もし神が不老不死のいのちを与えようと言ったら、私はどうするだろうか。果たして、それを喜んで受け入れるだろうか。いやいや、それはないだろう。私はきっと遠慮するに違いない。いや、遠慮ではなくて、はっきりと断るだろうと思う。不老不死。すなわち老いることもなければ、死ぬこともない。それだけを聞くと、なんとも良いことのように思えなくもない。老いず死なず、ということは寿命がないということになる。言うなれば、時間の制限を受けることのない身分になるということだ。やりたいことがあったら、いつでもやることができるのだ。今日やれなかったら、明日でもよい。そして明日がだめなら……時間はいくらでもある。そうやって考えると、ずいぶんと気が楽になるのも確かだ。焦ることも慌てることもないのだから、のんびりと日々を過ごせるに違いない。

しかし冷静に考えてみれば、そんなに楽しいことばかりではないのが、この世界の現実ではないだろうか、残念なことかもしれないが。例えば、やりたいことをやるだけの時間が限りなくあったとしよう。そうだとしても、あるのは時間だけで、お金は保証されていないのだから、やりたいことをやるためのお金を稼がないといけない。不老だから永遠に定年にたどりつかないわけで、つまり永遠に年金を払い続けるだけで、いつまで経っても年金をもらうことはできないのである。当然、定年退職を迎えることはないので、退職金を手にすることもできない。どれだけ働いて、どれだけ積み立てても、返ってこないのである。まぁ、途中で退職すれば話は別だろうが、いつかまた働かないとならない。つまりは、これを永遠に繰り返さなければならない。そうだとすれば、世の多くの人々にとっては、これは苦痛以外の何ものでもないだろう。
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真理とは

自由になりたい、そう思う人たちは世の中に大勢いるだろうと思う。とは言え、そう願う人たちにとっての自由とはいったい何であろうか。心配や不安から解放されることが自由なのであろうか。社会的な責任や公的な義務から解放されることが自由なのであろうか。それとも、もっと単純に好きな時に好きなだけ眠り、食べたいものを食べたい時に存分に食すことが自由なのだろうか。金銭的な制限がなくなり、欲しいものをすべて手に入れることが自由であろうか。自由という言葉をひとつとっても、その言葉の持つ意味というのはそれを聞いた人によって様々であろう。

ところで、聖書にはこのように書かれている箇所がある。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネの福音書8章32節)さて、それでは真理とはなんであろうか。真実、まことのこと。正しいこと、本当のこと。そう言うと、何やら確かなもののように思われるが、案外そうでもないのかもしれない。本来であれば、真実とは普遍的なものであるべきであろう。だが実際は、人にとっての真実というものは、その人が真実だと認めているものが、その人にとっての真実でしかないのではないか。たとえば、人の起源について考えてみよう。ある人は、神が世界の始まりに人間を創造されたと考えるだろう。またある人は、人は原始の海で発生した細胞が長い年月を経て人に進化を遂げたと考えるだろう。他にも、宇宙人が遺伝子操作で造ったとか、そもそも人間というのは現実には存在せずコンピュータのシミュレーションの中で存在しているに過ぎないとか、もはや私の想像を超えた考えまである。そして、大半は自らの考えが真実であると言って譲らないだろう。もちろん真実が普遍的なものであることに間違いはない。ただ、その普遍的なものが何であるか、どう頑張っても全員が合意に至ることはとても難しい、いや不可能なのではないかと思う。
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たまごよりだんご

桜が咲いた。文字通り満開である。家の近所の桜並木はこれでもかというほどの花を咲かせているし、夜の帰宅時の電車から見ることのできる大岡川沿いの桜は、露店の煌々とした照明に照らし出さていたり、ぼんぼりのおぼろな灯りに浮かび上がっていたり、遠くから見ても見事なものである。長らく灰色の寒々とした日々を過ごしてきた人々には、暖かな空気に包まれ、淡い桃色の花を纏う桜に春の訪れを感じるのだろう。この時期、桜の木のもとには―失礼な言い方になってしまうようで申し訳ないが―それこそどこから湧いて出てきたのかと思えるくらいに人が集まってくる。個人的な好みの問題でしかのかもしれないが、私は青々とした緑の葉を付けることもなく、ただ花だけを咲かせている桜というのは、苦手である。確かに華やかかもしれないが、どこかバランスを欠いているようで、どうも違和感を感じてしまうのだ。世に言われているような春の訪れを感じるには、何と言うか生命力や活力に乏しいような気がしてならない。

ところで、今日はイースターである。どこまで本気なのか分からないが、商魂たくましい企業などは、この日を玉子を食べる日として世間に広めたいらしい。彼らにしてみれば、イースターと言えば、海外ではイースターエッグが有名だということで、どうやらそれに乗っかろうという気持ちがあるようだ。それにクリスマスと比べると、イースターは盛り上がりに欠けているので商機と見ているところもあるだろう。もっとも多くの日本の消費者にとっては、この時期はお花見に忙しく、今さら玉子を宣伝されてもそれどころではないのかもしれない。この日の本来の意味を知る立場としては、イースターの認知度がクリスマスほど高くないのを残念に思う反面、誤った知られ方をしていないことはありがたいことだとも思う。
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エルサレムのために泣く

人々に歓迎されながら、イエス・キリストはエルサレムにやってきた。人々が喜びに満たされて大声で神を賛美しながら彼を迎える中、彼は何を思っていただろうか。彼の心はどのように感じていたのだろうか。人々に歓迎されることに喜びを感じていただろうか。ようやくエルサレムにたどり着いたという感慨にふけっていただろうか。彼の顔に浮かんでいたのは笑みだったろうか。彼の口から出たのは、安堵の溜息だったろうか。その時のイエスの様子が、聖書にはこのように書かれている。「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて」(ルカの福音書19章41節)

エルサレムの都より少し高いところにあるオリーブ山から、繁栄を誇り、多くの人々が暮らしている都を眼下に見て、イエス・キリストはその都のために泣いたのだ。イエスのそのような様子を見た人々は、もしかしたら彼が感動して涙を流しているのか、そう思ったかもしれない。しかし今までのことを振り返ると、はたして彼が感動して涙を見せたことがあっただろうか。イエスが前に涙を見せたのは、ラザロが死んだときのことだった。その時の涙は、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じたからではなかったか。(ヨハネの福音書11章33、35節)彼の心を動かすものは喜びなどではなく、むしろ悩みや苦しみや心配と言った、おおよそ好ましくない感情によることの方の方が多いのではないだろうか。
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愛を知らぬ

これは私の個人的な感想でしかないから、もしかしたら間違っているかもしれない。だが、少なくとも私はそのように感じているのだから、結局のところ、私の主観的な考えでしかない。同意を求めようとも思わないし、人を納得させようとも思わない。

さてそれが何であるかというと、賛美には二種類あるのではないかということだ。ひとつは、神が主体となっているものであり、必ずというわけでもないだろうが、どちらかと言えば聖歌とか讃美歌とか、古くから伝わっている賛美に多いのではないかと思う。例えば「驚くばかりの恵みなりき」とか「主われを愛す、主は強ければ」とか「慈しみ深き、友なるイエスは」という賛美に歌われているように、神はどのようなお方であるのか、神は何をなされたのか、などのように神について歌われている賛美である。そしてもうひとつは、人間が主体となっているものである。神を賛美するための歌であるのに人が主体となっているのもどうかと思うが、比較的新しいワーシップソングに多いような印象を受ける。例えば「御名を掲げて、あなたをたたえます」とか「あなたの心もとめて、御前に出る」というように、人が何をするか、どうするか、などのように人間の立場から神に対しての行いや思いを歌っている賛美である。前者を歌うことには抵抗はないのだが、後者を歌うのは時に戸惑うこともある。何にもまして「主よ愛します」というような言葉が含まれている賛美が、私は一番苦手だ。
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