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二択

果たして信仰というものや信心というものに、優劣をつけることはできるのだろうか。できるような気もするし、できないような気もする。正直、私には分からない。しかし、もし優劣をつけることができるのならば、私の信仰心というのは、おそらく粗末で低劣なものであろう。なんせろくに祈らないし、ほとんど聖書を読まない。おまけに礼拝にはしぶしぶながらに参加というありさまである。これでは、模範的でもないし、あまり人に、いやそれ以上に、神様に見せられたものでもない。なんというか、実に申し訳ない。申し訳ないと思っているなら、少しは改善の努力をすれば良いのだろうが……どうも、そういうわけでもない。いやはや、これではどうしようもない奴だと思われても仕方がない。

それならば、私に信仰がないかと言えば、そうとも言えない。矛盾していると思われてしまうかもしれないが。理由をあげるなら、私は神の存在を信じて疑わないし、イエス・キリストが救い主であることも確信しているからだ。ただ私の行いが私の思いに伴っていないだけである。言い訳がましく聞こえてしまうかもしれないが、それだけ神の存在が私にとって当然のものになっているからなのかもしれない。たとえて言うならば、空気や水が当たり前すぎて、その重要性やありがたみをあまり意識をしないのと同じようなことかもしれない。もしくは妻に対して、料理がマズイだの文句ばかりを言ったり、失敗を馬鹿にしたりすることはあっても、花を買って贈るのなんてせいぜい誕生日くらいなものであるというのも同じ理由かもしれない。やはり妻が私にとってそこにいて然るべき存在であって「特別」という意識が薄れているからなのだろう。ましてや、私と神の付き合いは四半世紀にもなろうかというのだから、その存在に鈍感になってしまったに違いない。
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クレネ人シモン

ふと気づいてみれば、私が信仰を持つに至ってから20年以上の月日が経った。私の記憶が正しければ、私が信仰を持ったのは二十歳の夏だから、もうすぐ四半世紀になろうか。我ながら、一度も信仰を離れずによくもここまで来れたものだと感心してしまう。とはいえ、必ずしも熱心であったとは言えないが、まぁ、そうだとしても続いているのだから、そこはよしとしよう。あの頃を振り返ってみると、私が信仰を持つきっかけになったのは、何か特別なことがあったというわけでもない。神の奇跡を見たわけでもないし、神の声を聞いたわけでもなければ、神の愛を感じたわけでもない。散々にあれやこれやと考えた末、キリストを信じた方が自分にとって得になるという結論に達したからである。何が得かと言えば、天地万物を創造されたほどの大きな力を持つ神に敵対するのではなく、そのような神の側に立つことができるということ、そして地獄ではなく天国に行くことができるということ。それくらいである。要するに、滅びではなく繁栄を選んだだけである。

「天国に行くには神を信じるしかないのか?」もしかしたら人はそのように聞くかもしれない。本当のところがどうなのか、正解は私には分からない。分からないが、少なくとも私はそうであると信じている。では、もし私が不正解だとして、他にも天国に行くための道があるとしたら、どうだろうか。それでも私は、私が今信じていることに後悔はしない。例えばであるが、神を信じなくとも、善行を積めば天国に行くことができるとしたらどうだろうか。とてもじゃないが、私には無理なことである。なんせ根が善人ではない私が善ばかりを行うなんて、できるわけがない。私のような人間にできるのは、神を信じるくらいである。自らの行いで天国への切符を手に入れられるほど、私は完璧ではない。
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ばかばかしい

欲しいものがあれば、やりたいこともある。人の欲求とは尽きることを知らぬものだ。いや、それとも私の欲求が強いだけなのだろうか。とはいえ、私が欲するものごとの多く、というか、ほぼすべては私の個人的な欲望でしかない。世の中の役に立つようなものでもなければ、モラル的にも正しいものでもないことも多い。例えば、日曜に教会を休んで家で思うがままに寝てみたいものだとか、献金をしようと財布から札を出して、やっぱりやめたと、札を戻して代わりに小銭を出すとか。挙げ句に献金をしなければ、自分の欲しいものを買うことができるのじゃないかと、ふと思ったりするのだ。とはいえ、さすがに欲望に身を任せるのはマズイんじゃないかと、考え直して、なるべく正しい選択肢を選ぶようには心掛けているつもりだ。

自己の内部における「善悪」の葛藤の末、やはり正しいことをして、その後は気持ちが良いものだと、そのように本当に思うことができれば万事めでたし。なのであろうが、実際はそういうものでもない……もしかしたら、私だけかもしれないが。意識の中では正しいことをしなければならない、自分勝手な欲望に負けてはならない、そう考えて可能な限り道を誤らずに進もうとしている。完全には程遠いかもしれないが、それでもなんとかやってきているわけだ。ところが、それで自分が納得できているかといえば、そういうわけでもない。誘惑に負けなかったとしても、それでも悶々とした思いはなくならない。いっそのこと、欲望のままに好き勝手に過ごした方が満足感を得られるのではないかとさえ考えてしまう。だが、気が小さいのか何なのか、そうすることもできないでいる。正しいことをしようとも、間違ったことをしようとも、結局どちらに転んだとしても、私が満足することはないのかもしれない。
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この人を除け

ここ数年ほど、私の本を読むと言えばもっぱら歴史物や時代物ばかりである。どうやら私はあるジャンルの本を読んで気に入ってしまうと、ずっと同じような本ばかりを読んでしまうらしい。それも何年にも渡って読み続けてしまう。そんな私が中学生くらいの頃によく読んでいたのはSF物だった。今でもたまに、ふと読んでみようかと思うこともあるが、やはり時代物に手が伸びてしまう。一通り自身を満足させることができたら、またSFでも読んでみようか。

ところで英国の著名なSF作家、アーサー・C・クラークの書いたものに「幼年期の終わり」という作品がある。TVドラマ化されたものを、少し前にケーブルテレビで放映していたので、ちょっと懐かしくなって見てしまった。さて、あらすじの一部だけを紹介すると、物語は20世紀の最後から始まる。紛争などで人類が自らを破滅の道へと追い込んでいる時、宇宙人がやってきて人類を救うというものであるが、とある事情から、50年間は姿を現さずに特定の人間を通じてのみ、間接的に人類に介入するというものである。彼らは実質的な人類の管理者となり、彼らの指導のもと人々の生活は向上し、あたかもユートピアで生活をしているかのごとくであった。やがて50年が経過し、宇宙人が人間たちに姿を現すことになったのだが、その姿は人々を驚かせるものだった。地上に降り立った宇宙人の代表者は、頭には小さな角が生え、背中には革のように丈夫でしなやかそうな翼に、棘の生えた尻尾がある。そして人類の倍はある体を支えている足は、獣の蹄のように割れている。まさしく中世絵画に描かれている悪魔の姿そのものだった。というのが、前半部分である。物語はさらに続くわけだが、SFが好きであれば読んでみることをお勧めする。
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ピラトとヘロデの見たもの

イエスが捕らえられた当時、ユダヤ地方を実効支配していたのはローマ帝国であった。そのようなわけで、祭司長たちに捕らえられたイエス・キリストは、一晩は祭司長の家に留め置かれたものの、翌朝にはローマから派遣されていた総督ピラトのもとに連れて行かれた。総督の屋敷で祭司たちは「イエスについて訴え始めた。彼らは言った。『この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。』」(ルカの福音書23書2節)

ふむ、なんだかおかしくはないか。そう思うのは私だけであろうか。なぜ、彼らはわざわざピラトのところにやってきたのか。しかも、ここにきて「カイザルに税金を納めることを禁じ」て民衆を煽っているなどと、あたかもイエスがローマ帝国に対して仇をなそうとしているかのように訴え出ている。これはどう考えても言いがかりだろう。むしろイエスは税金を納めるようにと言っているではないか。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。」(マルコの福音書12書17節)しかも、イエスを訴えている祭司長たちの仲間に対して言ったことばである。訴えている人たちが嘘をついているのは明らかである。つまりそうでもしなければ、イエスを罪に定めることができなかったのだろう。自分たちの手を汚すことなく、イエスの処罰をローマの役人であるピラト、ひいてはローマに任せようとしているかのようである。卑怯と言えば、まさにその通り。イエスに対して恨みがあるのなら、ローマを頼らずに自分たちでかたを付ければよいであろうに。そうしようともしない。自分たちに何らかの責任が降り掛かるのを恐れているかのようである。
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