タグ : 信仰

求めていたもの、必要なもの

先日、私の誕生日であった。人生百年であればまだ半分以上は残っている。もし90年であれば、折り返し地点はすでに過ぎている。さて残りの人生どれほど残っているのかは分からないが、なんだか長生きしてしまいそうな気がしなくもない。あまり長生きもしたくはないのだけれど。まぁ、こればっかりは神が何と考えておられるか分からない。まさしく天の御心のままにと、神に委ねるしかない。

それはさておき、さすがにこの年齢になると誕生日だからといって、プレゼントをもらえることもない。そんなわけで誕生日プレゼントというものが欲しければ、自分で買うしかないのである。ということで、何を買おうかと考えてはみるのだが、欲しいものがありすぎて困ってしまう。まったく物欲の深さに我ながら呆れてしまう。ここしばらく控えていた車の部品を交換しようか、それとも変わり映えのないコレクションに加えるべく腕時計を買おうか、はたまた妻が買い換えたのに合わせてスマホを買い換えようか、いや、やっぱりここは最近の私が最も熱意を感じていることを考えると、ウォーキング用の靴を買おうか……と悩んでしまう。とは考えてみるものの、いざ自分で買うとなると、予算の制限が出てくるので欲しいものと買えるものを見極めなくてはならない。自制心がどれだけ保てるのか、まさしく葛藤である、自分自身との戦いである。まぁ、冷静になって考えてみれば、週末にしか乗らない車にお金をかけるぐらいならば、次に車を買い替えるために今は我慢した方がいいのかもしれないとか、腕時計のベルトだけを変えれば気分転換にもなるのではないかとか、自力でバッテリーを交換しただけに愛着のあるスマホを変えるのはもったいないとか、靴は必要なものだから都度必要になったら買えばいいじゃないかとか、なんとか今のところは落ち着いている。とは言うものの、ヤフオクのウォッチリストにまだ車のパーツと腕時計が登録されているので、完全に物欲が収まったわけではないようだ。
続きを読む

ある議員の期待したもの

夏になるといつも気になることがある。今まで四十数年間生きてきて、今でもその答えを私は知らない。真剣に考えたことがなかったし、真面目に知ろうとしなかったからかもしれない。普段は気にしないで過ごしているが、ふとしたことで思い出すと、気になってしかたがない。もしかしたら人に言わせれば、そんなことも知らないのかと呆れられてしまうかもしれない。しかし私にはいつまで経っても分からないのだ。もしかしたら、誰かに教えてもらったことがあったかもしれないし、自分で調べてみたことがあったかもしれないが、なぜか私の記憶にはまったく留まらないようである。それほどに私を悩ませているものとは、一体何なのか。それは「そうめん」と「ひやむぎ」の違いである。

さすがに「うどん」と「きしめん」の違いは分かる。だが、白くて細くてツルツルしている同じような姿の、そうめんとひやむぎは何が違うのか。「今日の昼食はそうめん」と言われて出されれば「あぁ、そうめんなんだ」と思って食べるし「今日はひやむぎ」と言われたら「ふーん、ひやむぎなんだ」と何の疑問も持たずに食べるだろう。違いが私には分からないのだから。きっと「今日はそうめん!」と言われて、ひやむぎを出されても「違うじゃん、今日はひやむぎじゃん!」とは言えない。いずれにしても、暑い時期に食べるにはおいしいから、なおのこと違いなどはどうでもよくなってくるのだろうか。ちなみに、私は蕎麦の方が好きである。「冷やし蕎麦が食べたい」と言って、白くて細いの(に限らずとも、白くて太いのでも同じことだけど)が出されようものなら、間違いなくがっかりする。ちなみに黄色い麺も好きだけど、これはちょっと系統が違うか。この時期だと、太めの麺を氷で締めて、アツアツの煮干し出汁の濃厚豚骨スープに……あー、いかんいかん、そんなことを考えていると、夜中だというのにだんだんと腹が減ってくるじゃないか。
続きを読む

百人隊長の直感

今更言うまでもないことだろうが、私は素直な人間ではない。どちらかといえば、疑い深い人間である。さすがに身近な人たちの言うことを疑うことはあまりないとは思う。しかし関係のない他人の言うことは、疑って掛かることがほとんどである。自分の目で見て、自分の耳で聞いて、それらのことをじっくりと吟味して、そうしてはじめて納得できてから、ようやく受け入れるに値するものとして認めるのである。嘘か真か白黒はっきりすることができずに、なおかつ確たる根拠がないものについては、たとえ人が良いといっても、それを受け入れることはまずない。

考えてもみれば、そんな私がイエス・キリストを受け入れて、信仰を持つに至ったとは、自分で言うのも何だが、まさしく奇跡というようなものであろう。イエス・キリストを受け入れたその時まで、私はイエスを見たことがなかったし(当然今でも見たことはないが)、イエスが話すのを聞いたこともなかったし(やはり、今でも聞いたことはないのだが)、イエスのことを吟味するに足る十分な材料があったというわけでもなかった。もっとも信仰を持つようになってから考えてみれば、私のようなちっぽけで、足りないところだらけのつまらない一介の人間が、神の子であり救い主であるお方を吟味しようなどとは、おこがましいことこの上ない。
続きを読む

二択

果たして信仰というものや信心というものに、優劣をつけることはできるのだろうか。できるような気もするし、できないような気もする。正直、私には分からない。しかし、もし優劣をつけることができるのならば、私の信仰心というのは、おそらく粗末で低劣なものであろう。なんせろくに祈らないし、ほとんど聖書を読まない。おまけに礼拝にはしぶしぶながらに参加というありさまである。これでは、模範的でもないし、あまり人に、いやそれ以上に、神様に見せられたものでもない。なんというか、実に申し訳ない。申し訳ないと思っているなら、少しは改善の努力をすれば良いのだろうが……どうも、そういうわけでもない。いやはや、これではどうしようもない奴だと思われても仕方がない。

それならば、私に信仰がないかと言えば、そうとも言えない。矛盾していると思われてしまうかもしれないが。理由をあげるなら、私は神の存在を信じて疑わないし、イエス・キリストが救い主であることも確信しているからだ。ただ私の行いが私の思いに伴っていないだけである。言い訳がましく聞こえてしまうかもしれないが、それだけ神の存在が私にとって当然のものになっているからなのかもしれない。たとえて言うならば、空気や水が当たり前すぎて、その重要性やありがたみをあまり意識をしないのと同じようなことかもしれない。もしくは妻に対して、料理がマズイだの文句ばかりを言ったり、失敗を馬鹿にしたりすることはあっても、花を買って贈るのなんてせいぜい誕生日くらいなものであるというのも同じ理由かもしれない。やはり妻が私にとってそこにいて然るべき存在であって「特別」という意識が薄れているからなのだろう。ましてや、私と神の付き合いは四半世紀にもなろうかというのだから、その存在に鈍感になってしまったに違いない。
続きを読む

クレネ人シモン

ふと気づいてみれば、私が信仰を持つに至ってから20年以上の月日が経った。私の記憶が正しければ、私が信仰を持ったのは二十歳の夏だから、もうすぐ四半世紀になろうか。我ながら、一度も信仰を離れずによくもここまで来れたものだと感心してしまう。とはいえ、必ずしも熱心であったとは言えないが、まぁ、そうだとしても続いているのだから、そこはよしとしよう。あの頃を振り返ってみると、私が信仰を持つきっかけになったのは、何か特別なことがあったというわけでもない。神の奇跡を見たわけでもないし、神の声を聞いたわけでもなければ、神の愛を感じたわけでもない。散々にあれやこれやと考えた末、キリストを信じた方が自分にとって得になるという結論に達したからである。何が得かと言えば、天地万物を創造されたほどの大きな力を持つ神に敵対するのではなく、そのような神の側に立つことができるということ、そして地獄ではなく天国に行くことができるということ。それくらいである。要するに、滅びではなく繁栄を選んだだけである。

「天国に行くには神を信じるしかないのか?」もしかしたら人はそのように聞くかもしれない。本当のところがどうなのか、正解は私には分からない。分からないが、少なくとも私はそうであると信じている。では、もし私が不正解だとして、他にも天国に行くための道があるとしたら、どうだろうか。それでも私は、私が今信じていることに後悔はしない。例えばであるが、神を信じなくとも、善行を積めば天国に行くことができるとしたらどうだろうか。とてもじゃないが、私には無理なことである。なんせ根が善人ではない私が善ばかりを行うなんて、できるわけがない。私のような人間にできるのは、神を信じるくらいである。自らの行いで天国への切符を手に入れられるほど、私は完璧ではない。
続きを読む