タグ : 聖書

神は見て、それをよしとされた

神がなさった良いこと。ひとつは、神が天地万物を創造されたということ。

聖書の最初はこのように始まっている。「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」(創世記1章1〜3節)まず初めに神がなさったのは、世界を創ることであった。
続きを読む

数えてみよう

新しい年が始まった。新しい一年の始まりにあたり、その年の目標を立てるというのが一般的な日本人の考えることであろう。かく言う私自身もここ数年ほど、体重を減らすという目標を立てていたものだが、ようやく昨年はその目標を達成することができた。ということで、これ以上体重を減らす必要もなくなったわけだし、何か新しい目標を見つけないとなぁと思う新年である。さて、どうしたものか。まぁ、それについては、しばらく考えてみることにしよう。

ところで一般的な日本人としてではなく、キリスト者として新しい一年の始まりを迎えて、ふと思い出したがある。たとえば教会などでは、その一年の主題となる聖書の箇所、いわゆる年間聖句というものを決めていたりもするが、同じことをひとりの信仰者として、やってみるのはどうかということである。もしかしたら、似たようなことをやっている方々は大勢いるかもしれない。いや、私が気付くのが遅すぎるではないかと言われてしまうかもしれないし、そう言われたとしても反論のしようがないのだが。そんな私の心に浮かんだのは、このような聖書の箇所である。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103篇2節)
続きを読む

マグロのように

今年も残すところ、後わずかである。振り返ってみると、慌ただしい一年だったような気がする。後半は、これを書いている余裕すらなかったほどに、何だかんだと忙しかったような。それでは、何をしていたのだろうかと考えてみても、これをやっていたから忙しかったとか、あれをしていて時間を取られていたとか、一つひとつ具体的なことを挙げることができない。出張が多く、仕事も忙しかったというのも事実であるが、それだけではなかったような気がする。何かに追われていたのか、それとも何かを追っていたのか、いずれにせよ只々慌ただしく過ごしていた。暮れもこの時期になりようやく落ち着いてきたようだ。もっともこの平安も今だけのことであろう。年が明けたら、また忙しく過ごしているに違いない。慌ただしい日常は、今しばらく続きそうな気がする。

そのようなことを考えていたら、自分の姿がマグロのように見えてしまう。いや、刺身になって皿の上に並べられているマグロではなくて、回遊魚としての生きているマグロの方である。海にいるマグロは泳ぎを止めると死んでしまうから、寝ている間でさえも泳ぎ続けなければならないという。もちろん、マグロみたいに動き続けていたいわけではないし、そもそも体がもたない。地上で暮らす人間が寝る間も惜しんで動き続けていては、体調を崩すか、悪くしたら死んでしまう。さすがに寝ている間は体を休めることはできるが、目が覚めている間は常に何かに追い立てられているような気がするのだ。寝ている間は別としても、起きている間は私自身の思いにかかわらず常に動き続けていないといけない、そんな自分がなんかマグロみたいだなぁ、と思うのだ。
続きを読む

待つこと

電車通勤の経験が長い人であれば、おそらく一度や二度は、途中でお腹の具合が悪くなって、目的の駅にたどり着く前に下車してトイレに駆け込んだことがあるだろう。私もそのような一人である。というか、私の場合はふた月に一度くらいの頻度であることなので、通勤途中の主要な駅のトイレの場所と、どの駅のトイレが比較的新しくてきれいであるかは、概ね把握しているつもりだ。経験のある人なら分かってくれると思うが、あと一駅で降りる駅に着くから我慢しよう、などとは思わない。その一駅の距離が命取り、とまではいかないだろうが、私は経験したことがないが思わぬ事故や、そこまで至らずとも、この世に生まれてきたことを後悔したくなるほどに悶絶の一歩手前を味わうことになろう。たとえ仕事に遅れようとも、後で文句を言われようとも、そんなことはどうでもよい。安全と健康を考えるのであれば、我慢などせずにさっさと電車を降りるに限る。耐え忍んだところで、誰も褒めてはくれないのだし。

さて、ある日の私は上野東京ラインに乗って東京駅を目指すものの、ひとつ手前の新橋でギブアップ。電車を降りてトイレを目指すのだが、トイレにたどり着いたからと言って、すぐに目的を達成できるわけではない。なぜなら目的を同じにする人たちが大勢いるからだ。さらに待つこと数分。ようやく順番待ち行列の先頭になった。苦しみからの解放はもう目の前である。自分の順番が来るのをじっと待つ。もしここで誰かに「一万円あげるから譲って欲しい」と言われたらどうするだろうか。いや、冗談じゃないと、きっと断るに違いない。「では、百万円にするから」と言われたら……一瞬心を動かされてしまうが、この場所で待つことには百万以上の価値はあるだろう。まぁ、さすがに二百万と言われた、考えてしまうだろうが。待つことには待つだけの理由があり、待った末に得られるものにはそれだけの価値があるのだ。
続きを読む

見ても気付かず

私にとって至福の時間とは何であろうか。何をしている時に、私の身も心も平安に満たされるだろうか。やはり信仰者として、ここは「聖書を読んでいるとき」とか「礼拝をしているとき」とか答えるべきなのかもしれないが、実際は違う。もっと現実的というか、五感すなわち肉体で感じることのできるものが、私を満足させるのである。例えば、おいしいものを食べている時とか。それ以外では何があるかなぁと考えてみると、いや、何が気持ち良いかって、やはり背中を掻いてもらうことだろう。もしくは、自分で孫の手を使って掻くのでも十分に幸せを感じることができる。私がまだ子供だった頃からの癖というか、好みというか、今でも変わらないことのひとつと言えよう。きっと歳を取って死ぬまで、これは変わらないだろう。

いや、誤解されるといけないから念のために言わせてもらうが、毎日必ずとは言わないまでも、風呂に入るときには背中も洗うようにしているから、垢が積もって痒みがあるというわけでもない。痒いから掻いてもらったり、掻いたりするのではなく、ただ気持ちが良いからという、ただそれだけの理由だ。さて先日背中に手を伸ばしてみたら(ついでに言うと、誰にも掻いてもらえず、孫の手も手近になければ、仕方がないので手を背中に回して自分で掻くこともある……もちろん範囲は狭まってしまうのだが、何もしないよりはマシである)掻き過ぎてしまったのだろうか、引っ掻いた跡のようにカサブタができているではないか。灯台下暗し、ではないけれども、自分の背中というのは、直接見ることができないだけに、どうなっているのか気付かないものである。
続きを読む