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ペテロの不安

ここしばらく、最後の晩餐の場でイエス・キリストが弟子たちに語ったことを見てきた。イエスが弟子たちと最後に過ごす晩に彼らに語ったことは、イエスにしてみれば、どうしても弟子たちに聞いておいてもらいたい、彼らに知っておいてもらい、とても重要なものであったろう。イエスはこの夜が彼らと共に過ごす最後になるのを知っていたのだから、どうしてもこれだけは伝えておかなければならないと、そう考えていたに違いない。イエスでなくとも、誰でも今日が最後であることを知っていれば、大事なことを後に残る人々に伝えておきたいと考えるはずだ。例えば、仕事の引継ぎなども同じようなものだろう。私がそれまでやってきたことを、次に担当する人に伝えておくというのは、当然のことだ。さもないと、何かと支障が出てしまう。イエスは神の国の福音を伝えるという、重大な責務を負っていたのだからなおさらだ。

ところでその食事の時に、イエスはシモン・ペテロに呼びかけてこう言った。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカの福音書22章31~32節)
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誰が一番偉いのか

イエス・キリストが最後の食事の場において、最も身近な弟子たちに、今日まで続いている聖餐式の意義を教えたその後のことである。弟子たちは彼らの師であるイエスの話を聞いて、その意味について真剣に考えたり、その内容について話し合ったかであろうか。この箇所を読んで分かることは、彼らは宮殿で人々が大勢集まる中でイエスの話を聞いていたわけでもなければ、夜の静けさに包まれる荒野で彼らだけがイエスと共に休もうとしている時にイエスが語るのを聞いたわけでもない。過越の食事をしているときに、この話を聞いたのである。さすがに彼らがぶどう酒を飲んでべろんべろんに酔っていたとも考えられないが、酒に酔わなくとも雰囲気に酔うということはあるだろう。それこそ年に一度の祭の時の食事とあれば、さすがに彼らも今で言うところの、テンションが上がっていたかもしれない。イエスの言うことも耳にしたとしても、あまり真面目には考えていなかったようである。

それというのもその時の彼らの話題は、果たして誰が師を裏切るかということと、彼らの中で誰が一番偉いかということであった。前者はイエスが「見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。」(ルカの福音書22章21節)と言ったことに理由があるのは分かる。しかしなぜ後者の話題になったのかは、分からない。これは私の憶測でしかないが、誰かがイエスを裏切るということは、すなわち彼らに対して仇をなす者が出てくるということである。だとすれば、その反対に彼らの中でもっともすぐれた者がいたとしても、不思議なことではないだろう。人というものは、何かと他人と比べたくなってしまうものである。弟子たちとて、イエスと出会うまでは普通に生活してきた人たちである。そのように考えたとしても、仕方のないことであろう。
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パンと杯

私の通う教会でもそうだが、私が知る限りどこの教会でも、教団や教派に関係なく、その手順に若干の違いこそあれ、聖餐式を必ず守っている。まだ私がアメリカに居た頃のことだが、ある日曜日のこと、ガムを噛みながら礼拝に出ていたことがある。いつもはそのようなことはなかったのだが、たまたまその日は眠かったのか何なのか、今となっては理由を思い出すことはできないが、礼拝が終わるまでガムを噛み続けていた。ところが、すっかり私が忘れていたのか、それともまるで意識していなかったのか、始まる時までその日が聖餐式であることに気付かないでいた。なので、ガムを捨てる機会を失ってしまった。

さて、ガムを口に入れたまま、私のところに回ってきた「キリストのからだ」の象徴であるパン(ちなみにその時はパンではなく、スープに入れるようなクラッカー)、さすがに受け取らずに過ごすのもためらわれたので、まずは取ることにした。全員に行き渡ったところで、口に入れることになったのだが、ひとまず口の片側にガムを寄せて、反対側でクラッカーを噛んでみた。だけど、どうもうまくいかない。ガムのようにふにゃふにゃとした柔らかいものと、クラッカーのようにパサパサと乾燥した脆いものを同時に口にした状態で、それぞれを別に扱うなどと器用なことは無理だった。小さくなったクラッカーのかけらがどんどんガムに吸い寄せられて、いつの間にやらガムとクラッカーはひとつの得体の知れぬものになってしまった。それでも噛み続けると、今度はクラッカーと混ざったおかげでガムが小さな断片に分かれやすくなってきたようで、しばらく後「キリストの血」の象徴である杯が回ってくる頃には、ようやく口の中からガム諸共になくなってくれた。
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考えすぎない葦

「人間は考える葦である。」誰でも一度は聞いたことがあるだろう。17世紀フランスの思想家であり学者でもあるパスカルの有名な言葉である。「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。」自然の中にあっては、人間など取るに足りない存在であるが、思考という点においては、何物にも勝っているということであろう。人間というのは、思考するからこそ価値があり、存在する意義があるということか。

ところでこのパスカルであるが、クリスチャンでありカトリックの神学者でもあったそうだ。その立場から「パスカルの賭け」という論述を残している。どのようなものかといえば、理性ある人間は神が存在するかのように生活し、神への信仰を求めるのが望ましいという。その理由はこうである。神を信じて生きていれば、もし神が存在した場合、その人は多く(永遠のいのち)を得ることになり、また仮に神が存在しなかったとしても、その人は何も失うことがない。その反対に神を求めずに生きたとして、もし神が存在したら、その人は多くを失う(火の池に投げ込まれる)ことになり、彼が思ったように神が存在しなかったとしても、得るものも失うものもないということである。理性で神の存在を証明することができないため、数学者らしく確率から神の存在を示そうとしたものだった。聖書的な考え方ではないかもしれないが、言っていることは間違っていない。永遠のいのちを得るか、永遠の火の池に投げ込まれるかの二択であるなら、前者を選ぶ方が理性的というものであろう。間違っていたとしても損はしないという選択だ。
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たまごよりだんご

桜が咲いた。文字通り満開である。家の近所の桜並木はこれでもかというほどの花を咲かせているし、夜の帰宅時の電車から見ることのできる大岡川沿いの桜は、露店の煌々とした照明に照らし出さていたり、ぼんぼりのおぼろな灯りに浮かび上がっていたり、遠くから見ても見事なものである。長らく灰色の寒々とした日々を過ごしてきた人々には、暖かな空気に包まれ、淡い桃色の花を纏う桜に春の訪れを感じるのだろう。この時期、桜の木のもとには―失礼な言い方になってしまうようで申し訳ないが―それこそどこから湧いて出てきたのかと思えるくらいに人が集まってくる。個人的な好みの問題でしかのかもしれないが、私は青々とした緑の葉を付けることもなく、ただ花だけを咲かせている桜というのは、苦手である。確かに華やかかもしれないが、どこかバランスを欠いているようで、どうも違和感を感じてしまうのだ。世に言われているような春の訪れを感じるには、何と言うか生命力や活力に乏しいような気がしてならない。

ところで、今日はイースターである。どこまで本気なのか分からないが、商魂たくましい企業などは、この日を玉子を食べる日として世間に広めたいらしい。彼らにしてみれば、イースターと言えば、海外ではイースターエッグが有名だということで、どうやらそれに乗っかろうという気持ちがあるようだ。それにクリスマスと比べると、イースターは盛り上がりに欠けているので商機と見ているところもあるだろう。もっとも多くの日本の消費者にとっては、この時期はお花見に忙しく、今さら玉子を宣伝されてもそれどころではないのかもしれない。この日の本来の意味を知る立場としては、イースターの認知度がクリスマスほど高くないのを残念に思う反面、誤った知られ方をしていないことはありがたいことだとも思う。
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