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絶滅危惧種

先日、世界に三頭しかいないというキタシロサイの一頭が死んだ。死んだのはこの世に生存していた最後のオスだったそうな。残りの二頭はメスなので、この時点で絶滅することが確定した。スイスに本部を置く国際自然連合によると、おおよそ二万種の生物が絶滅危惧種として認定されているそうだ。種が絶滅するのは自然の流れのなかではやむを得ないことなのであろう。今でこそ人類は繁栄を誇っており、地球上で最も優位に立っている存在であると言っても言い過ぎることはないだろうが、そんな人類でさえいつかは「絶滅危惧種」になってしまうという可能性も否定はできないだろう。急激な気候変動、巨大火山の噴火、小惑星との衝突、致死率の高い感染症、等々……未だかつて人類が遭遇したことのない自然災害が発生するかもしれない。もしくは人類が自らの過ちから何らかの事象を引き起こし、自らの破滅を導いてしまうことも、自然災害よりも確率は低いかもしれないが皆無ではないだろう。

その一方で、技術は日々進歩している。人類の英知をあわせれば、これらの問題を回避することも不可能ではないだろう。気候変動を抑止する方法を見出せるだろうし、火山の噴火を予測することができれば、事前に安全な場所に避難できるかもしれない。地球に衝突しそうな物体があれば、その軌道をずらすこともできよう。あらゆる疾病に対する治療方法も見出されるかもしれない。また人類も過ちを犯すことなく共存共栄の道を歩んでいるかもしれない。場合によっては、不死とは言わないまでも不老長寿を達成しているだろう。やがては人類は永遠に存在し続けることができるようになるのではないか。そう思えてしまう。しかし、終わりは必ずやってくる。50億年後、太陽の寿命が尽きる頃、地球は太陽に飲み込まれてしまう。火星に逃げても無駄である。木星、土星、まぁ、少しは生き延びられるかも。だが、太陽が死んでは、人類は生きていけない。もっとも、その時までに別の太陽系に移住していれば、話は別だが。
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迫害されていない時こそ

我が国、日本におけるクリスチャンの人数が人口の1パーセントにも満たないというのは、今さら言うまでもないだろう。なぜなのか、考えてもみれば不思議なことである。中東のイスラム諸国や、北朝鮮のような権威主義体制が敷かれている国々においては、国家や体制が定めた中での限定的な信仰が認められているか、もしくは信仰の自由などまったく認められていないというのが現実である。普段はあまり考えないが、キリスト教に対する迫害というのは、今現在も続いているのだ。ある米国のNPOの調査によると、クリスチャンに対する迫害が最も激しいのは、イスラム主義が主流の中東の国々ではなく、実は日本の隣にある北朝鮮であるという。

幸いにも海をひとつ隔てた我が国では、信教の自由が以下の通り憲法で保障されている。「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」(日本国憲法第20条第1項)当然ながらクリスチャンであるということで迫害されることは、まずない。実際、私は自身の信仰を別段隠しもせずに公けにしているが、それが原因で他者から否定的な反応をもらったことがない。珍しいとか、意外だとか、場合によってはなぜだか褒められたりとか、肯定的に見られている。
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本物を知る

「フランクミュラー」と言えば、スイスの高級機械式時計メーカーである。一番安いものでも数十万円、市場に出回っているなかで高いものになると、数千万を超える。それこそ新築の家と新車を一緒に購入しても、まだお釣りがくる程の値段である。とてもじゃないけど、私なんかが買えるようなシロモノではない。でも腕時計が好きな私としては、いつかはそれなりの機械式時計が欲しいとは思う。もっともフランクミュラーは好みのスタイルではないので買おうとは思わないが。いや、負け惜しみじゃなくて、ホントに。

ところで、日本には「フランク三浦」という腕時計のブランドがある。もちろん、前者のパロディである。商標登録をした際に、本家のフランクミュラーと訴訟問題に発展したこともあって、一時期話題になったこともある。ついでに言っておくと、フランク三浦側の勝訴となったそうだ。片や数十万から数千万の高級時計、片や数千円でカタカナと漢字で「フランク三浦」(しかも「浦」という字は、わざと間違えている)と書かれいてる時計であり、両者が混同される可能性は考えにくいというのが判決理由らしい。まぁ、もっともな話である。これで間違える人がいたら、どんだけ抜けてるのか、ってところだ。それにフランク三浦側は、はっきりとパロディであると言っているのだから、模造品でもなければ、偽物でもない。
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二枚の銅貨を投げる

私がキリスト者になってからというもの、神社にお参りに行くことはなくなってしまった。では、キリスト者になる前は、ちゃんと神社にお参りに行っていたかというと、実はそういうわけでもない。まぁ、19歳の時にアメリカに行ってしまったからというのも理由かもしれないが。それ以前の記憶では、せいぜい正月に初詣に行ったくらいか。そして初詣と言っても、元旦にではなく、数日くらい経ってからだったような気がする。ところで神社にお参りと言えば、ケチな私はお賽銭を連想してしまうのだ。お賽銭はいくらぐらいが適当なのか。やはりご縁があるようにということで、五円がいいのだろうか。年始のニュースなどで、お賽銭箱の中身を神社の職員の方々が整理している場面がたまに放映されるが、そこで一万円札とかを見ると、結構な額を投げている人がいるのだなぁと、ちょっと神社がうらやましくなってしまう。やはり額は多い方がいいのだろうか。

ところで実際のところ、額はあまり重要ではないらしい。一説では、お賽銭とは「神様」(聖書のじゃないよ)への感謝のしるしであるらしい。またある説では、自らの汚れや邪気を金銭に託して清めるという意味もあるとか。キリスト者の視点から見れば、供え物としてのお賽銭と、いけにえとしてのお賽銭という考え方があるように思われる。いずれにしても、願いをかなえてもらいたいがために金銭で「神様」を買収するという意味はないらしい。願い事の大きさと金額は比例しないということか。
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長い言葉

前にも書いたかもしれないが、私は新製品とか、期間限定とかいう言葉に弱い。それに加えて割引となっていると、さらに興味が増してしまう。ところで先日、駅前のコンビニに行ったら「パン全品20円引き」となっていた。ちょっと小腹が空いていたこともあり、何か甘いものを食べたい気分にもなっていたので、蟻が甘い蜜に導かれてしまうかのように、つい足がコンビニへ向かってしまった。新製品のパンが20円引き……おぉ、なんと素晴らしいことなのか。新製品の菓子パン……あぁ、なんたる甘い響き。しかも、あんぱん好きの私にとっては、その甘い誘惑から逃れることができない小豆、つまりは餡子が使われているではないか。これは買うしかない。でも、ひとつだけ買ってしまうと、家族で分けたときに自分の取り分が減ってしまうので、それは避けるべきだ。ということで、同じものを二つ買うことにした。これで、合わせて40円引き。なんだかすごい得した気分である。まぁ、ホントは、必要のない出費をしただけなのかもしれないけど。

そのパンの名は「よもぎ求肥と小豆を包んだ/よもぎと小豆のちぎれるぱん」である。ちなみにひとつ119円、なんと20円引きすると99円、ぎりぎり二桁で収まる値段ではないか。もちろん、税抜価格なので実際には100円を超えてしまう。だが、そんなことを考える理性など残されているわけがない。
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