カテゴリー : 聖書から

心配無用でも

イエスのことばに耳を傾け、またそこに込められた意味について思いをめぐらしてみると、簡単には理解し がたいことかもしれないが、心配することは何一つとしてないことが分かり、少しは気持ちが楽になるだろう。毎日の生活の中で、あれこれと思い悩むことがあるとしても、その一つひとつは神の御前にあっては、取るに足らないものであることも分かって来るであろう。そして神を求めることによって、人がこの世界で生きていくためになくてはならない「日常の糧」も必然として与えられるということも分かってくる。与えられると受け身で書いてしまうと、あまりぱっとしないが、はっきり言うのならば、神が与えて下さるのだ。人が必要とするすべてのものは、神が与えて下さるというのだから、何を心配することがあるだろうか。

ところで思い違いをしやすいことかもしれないが、心配する必要がないということと、心配する原因が取り 除けられるということは同じではない。神を求めたからというだけで、私たちを取り巻く状況が一転して、ある日を境にして私たちを困らせるものが消えて無くなるというわけでもなければ、朝起きればその日の食事や衣類が、なぜか奇跡的にすべて揃って部屋に用意されている……というわけでもない。もちろん神にそれが実現出来ないというわけではない。実際、旧約聖書の時代にはイスラエルの民が食料のない荒野をさまよっているときに、天からパンを降らせたという「事件」も記録されているのが、それはまったく食べ物のあてがない荒野での話である。飽食の時代と言われて久しい今日の日本の現実を考えてみると、神がわざわざ天からパンを降らさなくとも、近所のコンビニに行けば、パンでもおにぎりでも弁当でも、最近話題のスイーツだって何でもあるではないか。当時と今の状況を考えると、食料のためにわざわざ神の手を煩わすまでもないのではないかと思ってしまう。むしろ今の社会で、玄関の前に食べ物が置かれてあるのを見つけたら、まずは疑ってみるのが先であろう。それを「神が与えて下さった!」などと喜んで食べる人はまずいないだろう。普通に考えれば、そのまま捨てるに違いない。
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何を求めるか

いくらイエスが心配するなと言っても、心配してしまうのが人間という生き物なのだろう。信仰を持つ者として心配する必要がないという理由を知っているから、大っぴらにこれを心配しているとか、あれが気になってしようがないとかを口に出すようなことはなるべく避けようと思うのである。しかし表情や行動や言動に出さないとしても、何も心配していないとは言うわけでもない。本当に何も心配や不安のない人がいたとすれば、それはそれで大したもんだと思う。ところが今のこの時代、多かれ少なかれ程度の違いこそあるだろうが、何事か心配せずにはいられないというのが残念ながら事実であろう。イエスが心配しないで良いと言っているのだから、心配しないのが最善なのは分かっているとしてもだ。

どうして人はそれでも心配してしまうのだろうか。それは自分のまわり、すぐ近くにある物事に目が向いてしまうからではないだろうか。つまり自分に影響を及ぼしそうなことばかりが気になってしまうのかもしれない。それが自分にとって益となるのか、それとも害を及ぼすのか……そのようなことを考え始めるときりがないものだ。たしかに先のことを考えることは悪いことではない。行き当たりばったりで何をするか、どちらに向うかを決めていたら、それこそとんでもないところにたどり着いてしまいかねない。そうならないためにも、先のことを考えて計画を立てることのは良いことであろう。ただその計画にがんじがらめに縛られたり、それだけが唯一の道だと決めつけてしまっては、余計な重荷を背負い込むことになってしまい、その計画そのものが心配の種となってしまうだろう。それでは本末転倒というものではないか。
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野のゆり

イエスはこのようにも言っている。「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。」(マタイの福音6章28節)

着る物で心配とは、何のことだろう。文字通り着る物がなくてどうしようかと気に病むことだろうか。着る物がないとどうなるだろう。もっとも温順な土地であったり、暖かな季節であったら、着る物がなかったらどうしようかなどと、心配するようなことはないに違いない。エアコンが無い真夏の我が家や、赤道付近の土地では、それこそすっぽんぽんで過したくなるくらいかもしれない。但し、屋外でそれをやってしまうと日に焼けたりしてしまい、後で泣きを見ることになる。自慢じゃないが、それに近い経験をしたことがあるので、これは確かなことである。あれは日焼けというよりもヤケドに近いものであった。若気の至りとでも言ってごまかしておこう。ところがその反対に寒いところだと、着る物がなかったらどうなるか。以前テレビで寒さに耐性があるという男性が、極寒の北欧を上半身裸でかつ裸足という格好で雪上マラソンに挑戦したとい番組を見たことがあるが、ゴール直前にはつま先が凍死に等しい状態にまでなってしまったそうだ。本来であれば一度凍死した器官は回復しないことがほとんどらしいのだが、その男性は完全に回復したそうである。いわゆる超人と呼ばれている人でさえ極寒の中ではそのような状態に陥ってしまうのであるから、一般人が何も身につけずに寒さの中に放り出されたら、それこそ凍え死んでしまうのは時間の問題であろう。
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鳥が飛ぶのをやめたなら

キリストは心配するなと言う。もちろん今更言われるまでもなく、そんなことは分かっているのだけれども、人は心配してしまうものである。しかしなぜ、キリストは心配するなと言っているのだろうか。イエスはその理由をこう説明している。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」(マタイの福音6章26節)

私たちは自分のいのちや自分の健康のことをあれこれ心配しなくても良いのである。なぜなら、天の父、すなわち神が私たちを養って下さる、つまり私たちが日々生活する上で必要なものを備えて下さるのである。キリストが言うように、当然のことながら空を飛ぶ鳥は、自ら手を(翼を?)泥で汚して食料を得るために汗を流して苦労する必要はないのである。ただそこにある木の実をついばむか、虫を捕らえるか、それだけなのである。何も鳥に限ったことではないだろう。海の中を泳ぐ魚も、草原を駆ける動物も、自ら食料を生み出すために苦労することはないのである。それらの食料となるものは、自然に存在し、それを手に入れさえすれば良いのである。人間に飼われている動物でも似たものだ。なぜなら飼い主である人間がそれらに餌を与えるのだから。人間と他の動物との違いを挙げるとすれば、人間は生産をするが動物は生産をしないということだろうか。
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心配しない

人は二人の主人に仕えることはできないとキリストは言う。神を選びながら、富を選ぶことはできないし、またその反対に、富を選びながら、神を選ぶこともできない。もちろん私のような欲の深い者は、その両方を望んだりもするのだが、残念ながらそれは無理なことなのである。悪くすると、そのどちらも得られないということになりかねない。というわけで、あまり欲を出すのは考え物であろう。

しかし欲を出すとか出さないとかの問題だけではないようだ。人間、欲がないからと言って、それだけで神に目を向けることが出来るかと言えば、そういうものでもないだろう。信仰者でもあるし、欲深でもないという、私からしたら何とも理想的な存在に思われるような人々も世の中にはいるだろう。いやいやそうではなくて、もしかしたら私のように信仰と欲深を併せ持ち、常に自分のうちで両者が葛藤している者の方が少数派だろうとも思う。しかし欲がないというだけで、信仰者には何の悩みも問題もないということになるだろうか。残念ながらそのようなことはない。どれだけ信仰が篤くとも、やはり悩みだの心配だのというものはついてまわるものだろう。
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