カテゴリー : 2012年の作品

見えなくとも

今年の冬はいつもより長かったように感じた。寒い日がいつまで続くのかと思ったものである。しかし私の気付かぬ間に季節は移っていたようだ。いつになったら咲くのだろうかと、通るたびに見上げていた桜の木の枝に、ようやく少し花が咲くのを見つけたら、さほど日を置かないうちに、枝という枝が薄桃色の桜の花に包まれていたという具合だ。春があっと言う間に来てしまったのか、それとも桜の花があっと言う間に咲いてしまったのだろうか。それにしても桜というのはせっかちな花である。徐々にゆっくりと花を開かせるのでなく、一日二日ほど見ないでいたら満開になってしまうとは、何と慌ただしいことか。満開になったから、次の週末にでもゆっくり見に行こうかと思ったら、半分くらいは花が散ってしまう。静かに花を開き、しばらくそのままで見る者の目を楽しませ、やがて忘れられた頃に散る……という優雅なイメージとはほど遠い。ぱーっと咲いたと思ったら、ぱーっと散ってしまうのだ。華やかであることに違いはないが、何か物足りないようにも思われる。もっともそれが良いという人々もいるのかもしれない。

それにしても一年365日あるなかで、ほんの数日だけ鮮やかに花を咲かす桜というのは、どうしてもこの季節にだけ注目されてしまうようだ。たしかにこの時期を除いては、さほど見るところのある木ではないだろう。ひらひら花びらが風に舞いながら落ちるのは風情があるかもしれないが、その後には毛虫と毛虫の糞が落ちてくるのだから、それを考えるとできるなら近づきたくないとさえ思う。おまけに桜並木の近所に住んでおられる方々にとっては、春には風に散らされた花びら、秋には落葉の掃除をしなければならないので、花が咲いたと喜んでいるだけでは済まされないだろう。
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一粒の麦

ちょっと前まではクリスマスほどに知名度が高くはなかったイースターであるが、きっかけは様々であろうが、近年では一般にも知られるようになったように見受けられる。もっともイースターとだけ聞いてしまうと、クリスチャンでもなく、海外のカレンダーに詳しくない人にとっては、もしかしたらイースター島のモアイを連想してしまうかもしれない。とは言っても、最近ではインターネットで検索すればイースターが何であるか、すぐに調べることができるので、便利な世の中になったものである。ざっと見たところでは「イエス・キリストの復活を祝う記念日」とか「キリスト教の復活祭」などと説明されているので、世間一般での認識もあながち間違ってはいないようだ。

それらの解説にもあるとおり、キリスト者にとってイースターと言えばキリストが復活されたことを覚えて祝う日であることに間違いはない。しかしそう言ってしまうと「キリストはよみがえられました、めでたし、めでたし」という印象ばかりが先走っているように感じるのは、はたして私だけであろうか。だとすれば、復活祭の最も肝心なところが見えてこないように思われる。その奥深くにあるものを知るには、それが私たち自身にとって、どのような関わりがあるかを理解しておく必要があるのではないだろうか。ただ傍観しているだけでは、キリストが復活したことを、単なるおとぎ話におとしめてしまうのではないだろうか。キリストの復活を理解するには「なぜ」「どうして」を知らなければならない。
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国籍

先日ぼんやりとこんなことを考えていた。私が最後に海外に出掛けたのは、今から九年ほど前に新婚旅行でタヒチに行った時だったなぁ、と。そんなことに思いをめぐらしていたら、ふと気がついたのだ。もしかしたら私のパスポートは既に期限が切れているのではないか、と。確かに覚えていることは、最後に申請した時は将来的に使うことができるようにと、有効期間が十年のパスポートを作ったはずだということだ。あわよくば、まだ有効期限が残っているかもしれないと期待しつつ、パスポートを引き出しの奥から引っ張り出して、改めて見てみると……残念、すでに去年の11月に失効していた。

つまりこういうことだ。もしまた私が海外に行くとなったら、再申請をしなければならないのである。必要な書類を準備して、申請書に記入して、パスポートセンターまで出向いて、などとあれこれ考えると面倒に思えてしまう。しかも以前と同じように有効期間が十年のパスポートを作る場合には一万六千円、仮に期間が半分の五年でも一万二千円も費用が掛かる。果たしてパスポートなんてそこまで手間や予算を掛けてまで取得するほど価値があるものなのだろうか……というのは、所詮海外に行くだけの理由も、時間も、金銭もない私の僻みでしかないのだろう。もし海外に行けるのが分かっていれば、きっと私は嬉々としてパスポートセンターまで出掛けて、高価な収入印紙をためらうことなく買っていることだろう。が、いずれにせよ今の私には縁のない話である。
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二兎追う者は

人という存在がもとより欲の深い生き物なのか、それともただ私の欲が目立って強いだけなのか、いずれにせよ私の頭の中には常に様々な欲望が渦巻いている。もっともこんな私であるが、豆粒程度のわずかばかりの理性はあるようで、辛うじて自制することができているらしく、それらの欲望のままに生きているわけではない。もちろんそれらの欲望を実現する能力に欠けているというのも理由の一端かもしれないが。やりたいことをすべてやることができるわけでもなければ、欲しいものを何でもかんでも手に入れることができるというわけではないというのが現実である。

実際、二兎を追う者は一兎も得ず、という諺もあるではないか。ところでその情景を思い浮かべつつ、勝手にその後を想像などしてみると、結末は明るくなさそうである。例えば、一人の人が草原で白毛の兎と黒毛の兎を見掛けたとしよう。細かい事情を追及するのはやめにして、どうしようもないほどその人は空腹を覚えたので、一羽では足りないかもしれないと思い、二羽とも捕まえて食べようと兎に飛び掛かったのだが、その動物的な本能で危険を察知した兎たちはどうしたかというと、白毛は左へ、黒毛は右へ逃げてしまった。残念無念、その人の着地した先には兎はいない。それどころか足場が悪かったら無事に着地できないばかりか、下手をしたら足首を捻挫してしまうだろう。そうなると状況はさらに悪くなってしまいそうだ。ただでさえ腹が減ってへたばっているところに、足首の痛みが加わってしまうのだから、これでは草原でひとりぼっちで残されて、誰かに発見されなければ飢え死にしかねない状況である。今さら一匹だけに狙いを付けて、地味に罠でも仕掛けておくべきだったと考えても手遅れである。
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笑う、喜ぶ、そして祈る、感謝する

前向きになろうとか、ポジティブになろうとか、最近巷に出回っている自己啓発本に、あたかも決まり文句かのように書かれていそうな言葉である。もっとも私自身はそのような本について、幸か不幸かまったくと言ってよいほど興味を持つことがないので読んだことはないのだが、この類の本の宣伝を、新聞や電車の吊り広告などで見掛けると十中八九そのようなことが書いてある。あぁ、またかと思いつつ、果たしてこれは最近の流行りなのだろうかと考えるのであるが、しかしよくよく考えてみると日本には古くから、笑う門には福来る、と言うことわざもあるではないか。ということは、そのような物の考え方は新しいものではないのだろう。医学的にも前向きに物事を考えるのは精神衛生上好ましいと聞いたこともあるし、笑うことは健康に良いとも聞いたことがある。してみると、あながち間違ったことでもないのだろう。そういえば聖書にも似たようなことが書かれていたではないか。例えばこれ。「いつも喜んでいなさい。」(Ⅰテサロニケ5章16節)

どうやらこれは人類にとって永久普遍の事実ということかもしれない。しかし大げさなことは抜きにしても、人は自然とそれを自らの経験から、誰から言われるともなしに気付いているのではないだろうか。
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