カテゴリー : エッセイ

完全でなくとも

これまでしばらくの間であったが、聖書にその名を残した男たちについて見てきた。今回も、と思ったのであるが、ヨナ書の後には何冊か預言書が続いて旧約聖書は終わりである。預言書という性質もあってか、誰がどうしたという視点からは書かれておらず、これぞと思える人物も登場しないのでヨナが最後となった。というわけで、新約聖書に移ろうかとも思ったのだが、いかんせん新約聖書、ことにマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書や使徒の働きなどは、様々な人々についてあれやこれやと色々なことが書かれているので、正直なところまとめるのが大変そうなので、どうするかしばらく考えてみようかと思う。面倒なだけじゃないのか、と疑われてしまいそうであるが、あえて否定もできないのだが。

それはさておき、もしも私が聖書を読んだこともなくて、聖書についての知識もほとんど持っておらず、またそこに書かれいてる物語も登場する人々についてもまったく知らなかったとしたら、つまりクリスチャンでなかったとしたら、聖書に名を残した人たちがいたと聞いた時にどう思うだろう。おそらく何やら偉大な人物なのではないかと思ってしまうことだろう。何と言っても聖書といえば「永遠のベストセラー」と言われているくらいである。古今東西多くの人々に読まれ続けている書物である。それほどの「名作」に名を記されているとは、端から見たら、きっと何か立派な偉業を成し遂げたに違いないと考えてしまいそうになる。
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ヨナの愚痴

遠い昔、ヨナと言う男がいた。ヨナは預言者であった……が、模範的な信仰者であったかというと、どうも疑わしい。彼について一番知られている話といえば、やはり大きな魚に飲み込まれて、生臭い魚の胃袋の中で三日三晩を過ごしたことであろう。預言者と言うと、やはり神のみことばを人々に伝えるのが主たる役割であり、それを考えると神に対して忠実な人物であると考えてしまう。少なくとも聖書を読む限りでは、神のみことばを伝えるために働いた人々というのは犠牲を惜しまずに、その目的のために一生懸命になった人ばかりのように思われる。また聖書には書かれていなくとも、歴史に名を残す信仰者には、そのような人々が多いのではないだろうか。考えてもみれば、神のみことばを伝えるという使命に忠実であればあるほどに、自らのことであれこれと思い煩う余裕などなくなるに違いない。

ところでヨナであるが、そのような典型的な預言者とはちょっと違った。彼はあからさまに神の言いつけから逃れようとしたし、また神のなさることのいちいち文句をつけたり、愚痴をこぼしたりと、どうにも従順とは言い難い人物であった。神がニネベへ行けと彼に命じたら、彼はまるで別の方角へと船に乗って逃げ出してしまったほどだ。当然、神はヨナを見逃さなかった。彼の乗った船は嵐に遭遇し、最終的に神の怒りを静めるために、船に乗り合わせた人々は彼を荒海のなかへ放り出したのだった。
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ダニエルの選んだ道

遠い昔、ダニエルと言う男がいた。どちらかと言えば、彼は聖書に登場する人物の中では有名な方だろうから、あまり詳しく述べるまでもないであろう。一文で説明すると、彼は捕囚によってバビロンへ連れてこられたイスラエル人の一人であり、バビロンの王が見た夢の意味を説き明かしたことで、その能力を認められ、権威ある地位を手に入れた人物である。などと書いてしまうと、何やらダニエルが世故に長けた、才覚のある人物のように思われてしまうが、実際はそれほどでもなかっただろう。彼の知恵と知識は神から与えられたものだった。しかしながら、ダニエルについて一番有名かつ知られているエピソードといえば、やはり彼とライオンの話ではないだろうか。

ところでその事件が起きた頃、ダニエルが仕えていた王は、彼を最初に認めた王ではなく、数えて三人目の王になっていた。つまり王が変わったにも関わらず、バビロンにおける彼の立場に変わりはなかったということだ。言い換えるならば、彼はただ王に気に入られていただけではなく、彼の為すことが広く人々から受け入れられていたのかもしれない。
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ヨブの不幸

遠い昔、ヨブと言う男がいた。彼について聖書にはこう書いてある。「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。」(ヨブ記1章1~3節)まさしく順風満帆を絵に描いたような人生を過ごしていた。人として立派であっただけでなく、信仰者としても確かであった。そして家族にも恵まれ、仕事も順調であり、経済的にも何一つ不自由を感じていなかった。誰もがうらやむ生活を送っており、不幸や絶望とは無縁とも思える人だった。

ところがある日のこと、突然の不幸が彼を襲ったのだ。「シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。」(同15節)「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。」(同16節)「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。」(同17節)こうしてヨブは職を失い、財産を失ってしまった。しかし不幸はそれだけでなかった。これらの悪い知らせが続々と届くなか、また使いがやってきて、すでに打ちのめされているヨブにこう伝えた。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で宴会を開いておられました。そこへ荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。」(同18~19節【一部新共同訳】)
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モルデカイの信念

遠い昔、モルデカイと言う男がいた。彼はエステルという娘の養育者であったということは、旧約聖書のエステル記に書いてある通りである。「モルデカイはおじの娘ハダサ、すなわち、エステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。」(エステル記2章7節)おじの娘ということは、すなわちモルデカイとエステルはいとこ同士になるわけで、現代の感覚からすると違和感を感じてしまう。さてそれはそれとして、エステル記というのはその名が示すように、エステルがヒロインの物語である。そう考えると、モルデカイは脇役のような存在に思えてしまうが、彼なしではヒロインも存在し得ないわけだから、脇役というよりも陰の立役者と見るべきなのかもしれない。

ところで彼の一番の働きはエステルを育てたことであろうか。これは私の考えでしかないが、そうだとは思わない。俗に、親がなくとも子は育つと言うように、もしモルデカイがいなかったとしたら、もしくは彼が従妹の面倒を見るのを拒んだとしたら、おそらく他の誰かが彼女を育てたことだろう。この聖書の話では、エステルはペルシヤの王に見初められて王妃となるのだが、これがモルデカイの一番の功績かというと、そうではないと私は思う。彼が育てなかったとしても、彼女は王妃となるに相応しい女性になったかもしれない。もしかしたら独り身のモルデカイが面倒を見るよりも、彼女を才色兼備な女性に育て上げることのできた人物がいたかもしれない。
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