カテゴリー : 信仰談話

よみにくだり

出張途中の電車の中でうとうとしていたら、ふとひとつのことばが頭に浮かんだ。何であるかというと、使徒信条の一節である「よみにくだり」という部分である。英語で言うと”he descended into hell”という箇所である。主語の”he”(彼)とは、すなわち前後の文脈から明らかなように、イエス・キリストのことである。つまり「イエス・キリストがよみにくだった」というような文章が、ぽっと頭に浮かんだのである。妙な映像が頭の中で再生されながら、このことばが出てきたのだから、まぁ、インパクトはでかい。

ちなみに使徒信条(=Apostles’ Creed)というのは、クリスチャンであれば誰でも知っていることであろうが、そうでない方々のためにひとことで説明すると、キリスト教の基本的な信仰を文章に表わしたものである。基本中の基本なので、カトリックとプロテスタントでもその内容は同一であるし、プロテスタントも色々な教派に分かれているが、使徒信条はやはり同じ内容である。極端な話、キリスト教と言いながら、使徒信条を受け入れていなければ、怪しい新興宗教と思って間違いないだろう。その起源は西暦390年までさかのぼるらしが、細かいこと置いておくとしよう。
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善と悪

一般的に考えられていることらしいが、キリスト教においては「善と悪の対決」というものがあるとか。もちろん信仰者の立場から言うのならば、それは間違っていると言えよう。善と悪の対決という誤解の原因となっているのが、神と悪魔の存在であろう。つまり神が善であり、読んで字の如く悪魔が悪であり、その両者が常に対立しているという考え方にあるのかもしれない。

いわゆる善と悪の最終決戦が「アルマゲドン」と思われているフシがあるらしいが、これもまた違う。この考え方の一番の問題は、神と悪魔が対立する構図で描かれていることだろう。はっきり言うが、この二者は対立することはない。アルマゲドンの意味といか目的を明確に言うのであれば、これは善である神が悪をこの世界から駆逐するためのものである。どれほど強大な力をもって悪魔が神に反抗しようとしても、結果はすでに分かっているのである。悪魔にしてみれば、負けることの分かっている無駄な戦いにしかならないのだ。というよりも、戦いにすらならないであろう。
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クリスチャン

私は世間一般で言うところのクリスチャンである。しかし私はクリスチャンという言葉があまり好きではない。そうは言っても便宜上、人から聞かれたら私も自分のことをクリスチャンと言うであろうし、同じような理由で人からクリスチャンと呼ばれることに関しては妥協している。私の信仰上の立場を現わす最も簡便な言葉が「クリスチャン」なのであるから、仕方あるまい。

ではなぜ私はクリスチャンという単語が好きではないのか。ひとつの理由としては、誰でもクリスチャンという言葉が表す意味を知っているがために、そこに込められた意味があくまでも外見的なものでしかないからだ。クリスチャンというと、誰でも思い浮かべるのが「キリスト教徒」ということであろう。つまりキリスト教という宗教に属している人々を示すときに使うのがキリスト教徒でありクリスチャンなのである。まぁ、便宜上これでも私の立場を現わすことに違いはないが、しかしそれはあくまでも立場的なものでしかない。要するにキリスト教の底流にある信仰については説明しきれていないからだ。もっとも一言でキリスト教とは何ぞやということを説明するのは難しい。というよりも、無理がある。

まぁ、ひとつの単語にそこまで求めるのは贅沢というものかもしれない。ちなみに私が好みで使う呼び方としては、私のブログのタイトルでも使われている「キリスト者」という言葉である。あまり一般的ではないかもしれないが、「キリストを信じる者」という意味で私は使っている。余談だが「キリスト教」という言葉も私は好きじゃない。
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Psalm 23

不真面目なクリスチャンを自認している私が言うのもおこがましいようだが、しばらく前から気になっていたことだけれども、詩篇23篇は改めて読んでみると、なかなか印象に残る箇所だと思う。

1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
2主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
3主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

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天国は存在するか

「車椅子の物理学者」として、世界的に有名な理論物理学者であるスティーブン・ホーキング博士が15日イギリスのガーディアン紙によるインタビューの中で、こう答えたそうである。”I regard the brain as a computer which will stop working when its components fail. There is no heaven or afterlife for broken down computers; that is a fairy story for people afraid of the dark,”(原文の記事はこちら)すなわち日本語に訳すとこうなるであろう。「人間の脳というのは、部品が壊れたら停止してしまうコンピューターのようなものであると私は考えている。壊れてしまったコンピューターには、天国というものも死後の世界というものもない。すなわち、それは暗闇を恐れる人々のためのおとぎ話なのである。」

なるほど、そのような考え方もあろうかと思う。確かに人間の脳というものは、その持ち主である人のすべてを司っているものである。脳があるから、人は考えることもできるし、感じることもできるのだ。脳死、すなわち脳が機能しなくなった状態を人の死と認めるかどうかは議論されているくらいだから、人の体における中心なのであろう。血液を循環させるという心臓の機能は機械がとって変わることができたとしても、脳の代用は機械にはできないであろうし。理論的に考えると、人の死=脳の機能停止の後には、単なる肉のかたまりが残されるだけで、死後の世界などありえないという結論に達するのも納得できる。
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