詩篇111篇10節

留学生とクリスチャンとはまるで縁のないものかと思っていたが、いざこうして見ると存外そうでもないようで、実に不思議なものであった。さらにそのなかに日本からの学生の姿を目にすると、その不思議さがより一層増すのである。日本ではキリスト教とも教会とも聖書とも全然関係のない生活をしてきたし、それが当然であるかのように過ごしてきたのであるから、当然本物のクリスチャンなんて見たこともなければ、キリスト教に興味があるという人さえも見たことがなかった。そんな私がはるばるアメリカに行って、そのような日本人の存在を知ると、世界の七不思議のひとつでも見ているかのような気になった。しかし、不思議なことにそう思っている当人がイエス・キリストや神様や聖書に興味を持つようになってしまうのだから、世の中どこでどうなるか分からないものだ。

さて、そのような立場で聖書を学ぶというのがテーマのキャンプに参加したわけだから、おそらく何か大きなものでも得ただろう、と思われてしまいそうだか、それほど単純なものでもない。いや、もしかしたら、それほど複雑なものでもないと言うべきなのだろうか。
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後ろ髪伸ばしてヘンなヤツ

そんな具合であったから、私が神様に近寄ろうとでもするなら、火責め水責めで殺されるとまではいわないが、さんざんに懲らしめられてしまうのではないだろうかと、恐ろしくなってしまうのである。そんな罪深い私がクリスチャンになれるわけがない、と思ったのは当然だろう。正直、怖くて怖くて、神様に近づこうなどとは想像すらできなかったのである。

どうしたものかと考えていたある日のこと、留学生を対象にしたクリスチャンのキャンプというのがあるが、一度参加してみてはどうかとキムさんに声を掛けられた。思えばいろいろなことに誘ってくれるものである。そして、私も調子よく誘いにのるものだ。もちろんひとりだけでは参加したくなかった。社交的とは程遠い私であったから、誰も知っている人がいないところに放り出されるのはどうにも苦手なのである。いや、知っている人がいないだけで、他に誰もいなければそれはそれで気楽でいいのだが、知っている人がいないけど、今回のキャンプのようにみんなで食事をしたり、寝泊りしたり、聖書を勉強したり、というのはなかなか耐え難いことのように感じてしまったのである。しかし、キムさんの話では、デイブさんやメラニーさんも行くということなので「これは救われた」と思い参加することにしたのである。結局、キャンプにはカネシロさんの車に同乗させてもらい、一緒に行くことになったのである。
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不思議とおもしろさを感じてしまい

こうしてマッスルマンさんの家で生活をするようになってから、しばらくの時が経ち、私がアメリカに渡ってから二度目の春を迎えるくらいの時期になった。思えばいろいろなことがあり単調な生活が続くことがなかったためか、退屈するということとはまったく縁のない一年であった。

さて、越してきてからはそれでも目立った出来事もなく平穏無事な日々を過ごすようになってきた。マッスルマンさんの家―すなわち私が住んでいる場所―では相変わらず英会話クラスを開いており、またその一方、週末の夜には聖書の勉強会も行われているという具合であった。当然の結果と言おうか、住人となってしまった私は、人から言われたわけでもなく、どちらもほとんど欠かすことなく出席するようになっていた。ところで、ホームステイをしていると英会話クラスに対する熱心さというのが徐々に失われてしまうのであろうか、この後しばらくして私は顔を出すこともなくなったである。
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さすがに家である

結局私はマッスルマンさんの家に引っ越すことになった。さすがにそう言われたその日に越すというわけにもいかないので、ひとまずアパートに戻り、大家さんに事情を説明しないといけないだろうし、たいしてないかもしれないが、荷物もまとめなければならない。

空き巣にやられてしまったと説明すると、大家さんにひどく申し訳なさそうな顔をされてしまった。ひとまず割られた窓はすぐに直してくれると言うことで、引っ越すまでのしばらくの間は用心深く、外出するときも部屋の電気はつけたままにして、人がいるかのような雰囲気を匂わせておくように心がけておいた。また部屋を暗くしてしまっては「留守ですよ。ご自由にお入りください。」と言うも同じと思い、結局アパートにいる間は夜寝ている間も電気をつけたままにしていた。
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「是非、そうさせてください!」

さて、私にとって初めての礼拝というものである。宗教心がないとはいっても、当然過去には神社やお寺に行ってお賽銭箱に小銭を投げ入れたり、鈴を鳴らしたり、拍手を打ったりして、願を懸けたりすることは何度もあった。ところが、このキリスト教の礼拝というのは、まったく異なるものであった。ふつう私たち日本人が神社やお寺に行くと言うのは、神仏に何かをお願いするためという具合であるようだが、どうもこのクリスチャンたちがやる礼拝というのは、多かれ少なかれ願懸けの要素はあるとしても、それだけではないようだ。

さて、オルガンで演奏される音楽―おそらくこれも賛美歌というものであろう―が静かに流れるなか、しばらく時を過ごす。祈っているのであろうか、目を閉じて、うつむき加減にしている人もいれば、声をひそめてなにやら話している人もいる。ペンを懸命に動かしている人もいれば、ぼんやりと目の前の空間を眺めている人もいる。周りをぐるりと見てみると、そのような具合であった。
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