百人隊長の直感

今更言うまでもないことだろうが、私は素直な人間ではない。どちらかといえば、疑い深い人間である。さすがに身近な人たちの言うことを疑うことはあまりないとは思う。しかし関係のない他人の言うことは、疑って掛かることがほとんどである。自分の目で見て、自分の耳で聞いて、それらのことをじっくりと吟味して、そうしてはじめて納得できてから、ようやく受け入れるに値するものとして認めるのである。嘘か真か白黒はっきりすることができずに、なおかつ確たる根拠がないものについては、たとえ人が良いといっても、それを受け入れることはまずない。

考えてもみれば、そんな私がイエス・キリストを受け入れて、信仰を持つに至ったとは、自分で言うのも何だが、まさしく奇跡というようなものであろう。イエス・キリストを受け入れたその時まで、私はイエスを見たことがなかったし(当然今でも見たことはないが)、イエスが話すのを聞いたこともなかったし(やはり、今でも聞いたことはないのだが)、イエスのことを吟味するに足る十分な材料があったというわけでもなかった。もっとも信仰を持つようになってから考えてみれば、私のようなちっぽけで、足りないところだらけのつまらない一介の人間が、神の子であり救い主であるお方を吟味しようなどとは、おこがましいことこの上ない。
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上から下まで真っ二つ

「わが日の本は島国よ」と聞いて、生まれながらの横浜市民ならその先を続けられるに違いない。私などは小学生の頃に何度も何度も歌ってきたから、四十歳を過ぎた今でも覚えているくらいだ。横浜市歌でも歌われているように、日本は四方を海に囲まれた島国である。さらにそれだけでなく、東西に狭く南北に長い。ほぼひと月ぶりに猛暑日と観測された場所がゼロになったかと思ったら、同じ日に北海道では初雪が観測されたという具合である。そんな日本の地形が頭にあるから、ついこのような勘違いをしてしまう私である。「海岸線を持たない県はなかったんじゃないかな。」申し訳ない、地理は昔から苦手なのである。そこでちゃんと数えてみると、日本には海と接していない県が八県あることに気付く。もっとも47都道府県のうち8県であるから、やはり少ないことには違いないか。それに滋賀県には海がないと言っても、日本最大の湖である琵琶湖があるから、ちょっと他とは違うかもしれない。そういえば、琵琶湖ってまだ行ったことがないな……。

ところでそんな内陸県のひとつ、栃木県で3週間ほど過ごして帰ってきたのだが、やはり横浜に帰って来て、駅から自宅への帰り道、階段を上りきったところで振り返って景色を眺めて、街並みの向こうに改めて海を目にすると不思議と安心を覚えるのだ。考えてもみれば人間の体の大半は水で出来ているという。それに一つの学説としての進化論では生命の起源は海にあるというし、また聖書に従えば「神は『天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。』と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた」(創世記1章9〜10節)とあるように、あらゆる生き物に先だってまずは海を創造されている。どうやら、海と人とは切っても切れない関係にあるのだろうか……というのは、私だけが思っていることかもしれないが。
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二択

果たして信仰というものや信心というものに、優劣をつけることはできるのだろうか。できるような気もするし、できないような気もする。正直、私には分からない。しかし、もし優劣をつけることができるのならば、私の信仰心というのは、おそらく粗末で低劣なものであろう。なんせろくに祈らないし、ほとんど聖書を読まない。おまけに礼拝にはしぶしぶながらに参加というありさまである。これでは、模範的でもないし、あまり人に、いやそれ以上に、神様に見せられたものでもない。なんというか、実に申し訳ない。申し訳ないと思っているなら、少しは改善の努力をすれば良いのだろうが……どうも、そういうわけでもない。いやはや、これではどうしようもない奴だと思われても仕方がない。

それならば、私に信仰がないかと言えば、そうとも言えない。矛盾していると思われてしまうかもしれないが。理由をあげるなら、私は神の存在を信じて疑わないし、イエス・キリストが救い主であることも確信しているからだ。ただ私の行いが私の思いに伴っていないだけである。言い訳がましく聞こえてしまうかもしれないが、それだけ神の存在が私にとって当然のものになっているからなのかもしれない。たとえて言うならば、空気や水が当たり前すぎて、その重要性やありがたみをあまり意識をしないのと同じようなことかもしれない。もしくは妻に対して、料理がマズイだの文句ばかりを言ったり、失敗を馬鹿にしたりすることはあっても、花を買って贈るのなんてせいぜい誕生日くらいなものであるというのも同じ理由かもしれない。やはり妻が私にとってそこにいて然るべき存在であって「特別」という意識が薄れているからなのだろう。ましてや、私と神の付き合いは四半世紀にもなろうかというのだから、その存在に鈍感になってしまったに違いない。
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クレネ人シモン

ふと気づいてみれば、私が信仰を持つに至ってから20年以上の月日が経った。私の記憶が正しければ、私が信仰を持ったのは二十歳の夏だから、もうすぐ四半世紀になろうか。我ながら、一度も信仰を離れずによくもここまで来れたものだと感心してしまう。とはいえ、必ずしも熱心であったとは言えないが、まぁ、そうだとしても続いているのだから、そこはよしとしよう。あの頃を振り返ってみると、私が信仰を持つきっかけになったのは、何か特別なことがあったというわけでもない。神の奇跡を見たわけでもないし、神の声を聞いたわけでもなければ、神の愛を感じたわけでもない。散々にあれやこれやと考えた末、キリストを信じた方が自分にとって得になるという結論に達したからである。何が得かと言えば、天地万物を創造されたほどの大きな力を持つ神に敵対するのではなく、そのような神の側に立つことができるということ、そして地獄ではなく天国に行くことができるということ。それくらいである。要するに、滅びではなく繁栄を選んだだけである。

「天国に行くには神を信じるしかないのか?」もしかしたら人はそのように聞くかもしれない。本当のところがどうなのか、正解は私には分からない。分からないが、少なくとも私はそうであると信じている。では、もし私が不正解だとして、他にも天国に行くための道があるとしたら、どうだろうか。それでも私は、私が今信じていることに後悔はしない。例えばであるが、神を信じなくとも、善行を積めば天国に行くことができるとしたらどうだろうか。とてもじゃないが、私には無理なことである。なんせ根が善人ではない私が善ばかりを行うなんて、できるわけがない。私のような人間にできるのは、神を信じるくらいである。自らの行いで天国への切符を手に入れられるほど、私は完璧ではない。
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ばかばかしい

欲しいものがあれば、やりたいこともある。人の欲求とは尽きることを知らぬものだ。いや、それとも私の欲求が強いだけなのだろうか。とはいえ、私が欲するものごとの多く、というか、ほぼすべては私の個人的な欲望でしかない。世の中の役に立つようなものでもなければ、モラル的にも正しいものでもないことも多い。例えば、日曜に教会を休んで家で思うがままに寝てみたいものだとか、献金をしようと財布から札を出して、やっぱりやめたと、札を戻して代わりに小銭を出すとか。挙げ句に献金をしなければ、自分の欲しいものを買うことができるのじゃないかと、ふと思ったりするのだ。とはいえ、さすがに欲望に身を任せるのはマズイんじゃないかと、考え直して、なるべく正しい選択肢を選ぶようには心掛けているつもりだ。

自己の内部における「善悪」の葛藤の末、やはり正しいことをして、その後は気持ちが良いものだと、そのように本当に思うことができれば万事めでたし。なのであろうが、実際はそういうものでもない……もしかしたら、私だけかもしれないが。意識の中では正しいことをしなければならない、自分勝手な欲望に負けてはならない、そう考えて可能な限り道を誤らずに進もうとしている。完全には程遠いかもしれないが、それでもなんとかやってきているわけだ。ところが、それで自分が納得できているかといえば、そういうわけでもない。誘惑に負けなかったとしても、それでも悶々とした思いはなくならない。いっそのこと、欲望のままに好き勝手に過ごした方が満足感を得られるのではないかとさえ考えてしまう。だが、気が小さいのか何なのか、そうすることもできないでいる。正しいことをしようとも、間違ったことをしようとも、結局どちらに転んだとしても、私が満足することはないのかもしれない。
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