ろばを手放す

我が家の玄関扉が交換されたというのは、前回も言った通りである。さて、玄関扉が新しくなって変わったことはいくつかあるが、そのうちの一つは、錠が二つになったということであろう。最近の家では珍しくないのかもしれないが、錠が一つだけの扉に慣れてしまったせいか、どうも違和感を覚えてしまう。今どきの扉のように、取っ手の上と下にそれぞれ錠がある。外から見れば、鍵穴が二つだし、内側から見ればサムターンが二つである。外から開けたり閉めたりするときは意識しているためか、鍵を二度回さなければならないことを忘れないのだが、内側から開けるときは、なぜか忘れてしまいがちである。朝出掛けるときに、上のサムターンだけ回して取っ手に手を伸ばすのだが、一瞬何か忘れたような気がして、あわてて取っ手の下にあるサムターンを回すという感じである。どうもまだ、連続した動作になっていない。

とは言っても、錠前が二つあるからと言って、それぞれが異なる鍵を持っているわけではない。どちらも同じ鍵が合うようになっている。だったら、そもそもなんで二つもあるのだろうか、と考えてしまう。それぞれが異なる鍵なら二重の防犯対策といわれても分かるのだが、同じ鍵であれば片一方が破られたら、もうひとつも同じようにして破られてしまうではないかと。まぁ、二倍の時間は掛かるかもしれないけど。もしやそれが目的なのだろうか。だったら納得できるのだが。それはさておき、たいした財産はないし、盗まれるようなものなんて何もない我が家であるが、やはり見ず知らずの他人がやってきて、数少ない金目のものを勝手に持ち出されてしまっては困るので、防犯対策は十分にしておいた方が良いに違いない。
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失われた人

今週から私の住むマンションで、各住戸の玄関ドアの交換工事が始まっている。数えてみれば築三十年近く経っており、それなりに経年劣化も進んでいるから、必要なことなのだろう。私の住む三階部分はさほど問題ないのだが、一階部分は地面からの湿気や風雨にさらされることが多いのか、見るも無残な有様だったので、やはり大規模修繕に先立ってドアを交換するのも分かる。だが、私が納得できないのは、ドアのデザインである。今まではいわゆる普通のドアだった。丸いドアノブがあって、真ん中に鍵穴があって、鍵を回して開けて、ノブをくるっと回して引っ張ると開くという、これこそがドアのあるべき姿ではないかと、そう私に思わせるものだった。ところが、これが今どきのドアになってしまった。色もそれまでのオフホワイトからえんじ色になってしまった。ドアの模様も直線と曲線に立体の混ざったレトロな雰囲気から、平面的かつ直線的な単調なものになってしまった。時代も昭和から平成へと変わり、20世紀から21世紀に変わったから、マンション用のドアのあり方も変わったのだろうから、どうしようもないのだろうけど、どうも残念でしかたがない。これだけは、納得できない。新しくなったから、めでたしめでたし、とは言い難い。でも、私ひとりがそう思ったところでどうしようもない。

もとより私は素直な人間ではない。周りが左と言えば右と言い、右と言えば左と言うような感じで、協調性がないというかあまり周囲とは同調しない方である。悪く言えば天邪鬼、良く言えば自主独往というところか。もちろん私は、人々が言うことに何でもかんでも反対するわけではない。納得できることであれば賛同もするし、必要だと思えば従うこともある。人が良いというもので、それが良いと思えば素直にそう言うだろう。
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自由に求める

これが欲しいとか、あれが欲しいとか、私の欲は尽くことがなさそうだ。食欲、睡眠欲、物欲に金銭欲。おおよそ欲という字の付くもので私を形容することができそうである。私から欲を取ってしまったら、いったい後には何が残るだろうか。もしかしたら脂肪くらいは残りそうだが、せいぜいそれくらいだろうか。そう考えてみると、まるで私は欲と脂肪の塊のような存在のように思えてしまう。なんだか潰したら汚そうだし、後の掃除も大変そうだ。さて、そんな私の欲求なんてものはまず満たされることがなく、日々は過ぎていく。何やらもやもやした気持ちで、すっきりしないまま過ごすこともしばしば。しかし、もしかしたら、欲があるゆえに生きていくことができているのではないか、そう思うこともある。もし万が一にも私の欲がすべて満たされてしまうようなことがあったら、もしかしたら私は抜け殻のようになってしまうかもしれない。

それはさておき、祈りの中で神に何かを求めるとする。もちろんどんなことでも求めて構わないと言われても、気が小さいからなのか、それとも信仰心が薄いからなのか、本当にこんなことを求めても良いのだろうかと考えてしまうこともある。自分のわがままな願いを祈るくらいなら、もっと求めるべきものがあるのではないか、そう考えてしまう。たとえば、まだ本当の神を知らぬ人々がイエス・キリストと出会うことができるように、そうやって他人のために祈るのが正しいのではないか、と。確かにそれが正しいことに違いはないだろう。しかしそれだけが正解なのかというと、そうでもないのかもしれない。
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神にはできる

神の愛と、その結果として得られる罪の赦し。そして、神から与えられる永遠のいのち。世の中でこれらに勝って価値のあるものなど存在しない。なんてことは、信仰心では分かっちゃいるけど、そんなものでは食べていけるわけでもなし、生活していくのは厳しそうだ。聖書にはイエス・キリストを信じれば、生ける水の川が流れるようになると書いてはあるが、それは肉体的、物理的なものではないだろう。やはりこの世界で生きていくためには、それだけのものが必要なのである。そして、それは多ければ多いほど良いに違いないと、そう考えてしまうのも仕方ない。ということで、この夏は普段なら十枚しか買わない宝くじを二十枚買ってみた。しかも別の売り場でそれぞれ十枚ずつである。単純に考えればこれで当たる確率は二倍になった。もっとも別の見方をすれば、外れた場合の損する額も二倍になっている。まぁ、冷静になって考えてみれば、ただ損しているだけな気もするが、ここは勢いに任せた方が気が楽なのかもしれない。

ところで、正しいものが何か分かっていても、なかなかその通りに従うのは難しいというのは、誰しもが感じていることかもしれない。であるにも関わらず、それでも正しいことを行うには、相当に強い意志の力が必要であろう。それとも、正しいと頭では理解していても、その通りに体が動かないのは、やはり人が生まれながらの罪人だからなのであろうか。楽な道を選びたくなるのも、人間の弱いところなのかもしれない。
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疑わないということ

先日、会社の携帯メール宛に木村拓哉さんという人からメールが届いた。何でも、前の日に彼と私で飲みに行ったらしく、木村さんはそれが楽しかったようで、今度は二宮和也さんという人を誘って飲みに行こうということだった。実際のところ、私は木村さんと飲みに行った覚えがない。そもそも私は、木村さんとも二宮さんとも面識がない。そんな名前の知り合いは身近にはいない。さて、木村さんは私からメールの返事がないことを気にしていたらしく、このアドレスで合ってるのか、心配だから返事が欲しいと何度か言ってきたのだが、どうも木村さんのメールアドレスを見ると、ヘンなのである。一見するとソフトバンクのアドレスのようなのだが、よくよく見ると”softbank”ではなく”sofibaank”なのである。”t”が”i”になっているし、”a”がひとつ多い。どうやら私が思っていた通り、迷惑メールみたいだ。うっかり返事をしようものなら、「木村さん」に個人情報を持っていかれてしまったことだろう。もっとも、職業柄そう簡単には私は騙されないという自信があるが、知らない人であれば引っ掛かってしまうかもしれない。もともと疑い深い私を騙そうとは、百年早いわ。

それにしても、露骨な内容の迷惑メールが多い昨今、日常会話とも言えるような内容で、どこか親しげな様子のメールだったので、これはさすがに憎めないなと思ってしまった。それどころか、もし会社の携帯ではなく個人宛に届いていたら、わざと騙されたふりをしてのせられてみるのも面白いだろうとも考えた。とは言っても、概ね相手はボット(インターネット上の自動化された仕組み)であって血の通った人間でもないから、私の反応に対して喜びもしないし怒りもしないだろうけど……それはそれでさびしいな。
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