この人を除け

ここ数年ほど、私の本を読むと言えばもっぱら歴史物や時代物ばかりである。どうやら私はあるジャンルの本を読んで気に入ってしまうと、ずっと同じような本ばかりを読んでしまうらしい。それも何年にも渡って読み続けてしまう。そんな私が中学生くらいの頃によく読んでいたのはSF物だった。今でもたまに、ふと読んでみようかと思うこともあるが、やはり時代物に手が伸びてしまう。一通り自身を満足させることができたら、またSFでも読んでみようか。

ところで英国の著名なSF作家、アーサー・C・クラークの書いたものに「幼年期の終わり」という作品がある。TVドラマ化されたものを、少し前にケーブルテレビで放映していたので、ちょっと懐かしくなって見てしまった。さて、あらすじの一部だけを紹介すると、物語は20世紀の最後から始まる。紛争などで人類が自らを破滅の道へと追い込んでいる時、宇宙人がやってきて人類を救うというものであるが、とある事情から、50年間は姿を現さずに特定の人間を通じてのみ、間接的に人類に介入するというものである。彼らは実質的な人類の管理者となり、彼らの指導のもと人々の生活は向上し、あたかもユートピアで生活をしているかのごとくであった。やがて50年が経過し、宇宙人が人間たちに姿を現すことになったのだが、その姿は人々を驚かせるものだった。地上に降り立った宇宙人の代表者は、頭には小さな角が生え、背中には革のように丈夫でしなやかそうな翼に、棘の生えた尻尾がある。そして人類の倍はある体を支えている足は、獣の蹄のように割れている。まさしく中世絵画に描かれている悪魔の姿そのものだった。というのが、前半部分である。物語はさらに続くわけだが、SFが好きであれば読んでみることをお勧めする。
続きを読む

ピラトとヘロデの見たもの

イエスが捕らえられた当時、ユダヤ地方を実効支配していたのはローマ帝国であった。そのようなわけで、祭司長たちに捕らえられたイエス・キリストは、一晩は祭司長の家に留め置かれたものの、翌朝にはローマから派遣されていた総督ピラトのもとに連れて行かれた。総督の屋敷で祭司たちは「イエスについて訴え始めた。彼らは言った。『この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。』」(ルカの福音書23書2節)

ふむ、なんだかおかしくはないか。そう思うのは私だけであろうか。なぜ、彼らはわざわざピラトのところにやってきたのか。しかも、ここにきて「カイザルに税金を納めることを禁じ」て民衆を煽っているなどと、あたかもイエスがローマ帝国に対して仇をなそうとしているかのように訴え出ている。これはどう考えても言いがかりだろう。むしろイエスは税金を納めるようにと言っているではないか。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。」(マルコの福音書12書17節)しかも、イエスを訴えている祭司長たちの仲間に対して言ったことばである。訴えている人たちが嘘をついているのは明らかである。つまりそうでもしなければ、イエスを罪に定めることができなかったのだろう。自分たちの手を汚すことなく、イエスの処罰をローマの役人であるピラト、ひいてはローマに任せようとしているかのようである。卑怯と言えば、まさにその通り。イエスに対して恨みがあるのなら、ローマを頼らずに自分たちでかたを付ければよいであろうに。そうしようともしない。自分たちに何らかの責任が降り掛かるのを恐れているかのようである。
続きを読む

真理とは

自由になりたい、そう思う人たちは世の中に大勢いるだろうと思う。とは言え、そう願う人たちにとっての自由とはいったい何であろうか。心配や不安から解放されることが自由なのであろうか。社会的な責任や公的な義務から解放されることが自由なのであろうか。それとも、もっと単純に好きな時に好きなだけ眠り、食べたいものを食べたい時に存分に食すことが自由なのだろうか。金銭的な制限がなくなり、欲しいものをすべて手に入れることが自由であろうか。自由という言葉をひとつとっても、その言葉の持つ意味というのはそれを聞いた人によって様々であろう。

ところで、聖書にはこのように書かれている箇所がある。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネの福音書8章32節)さて、それでは真理とはなんであろうか。真実、まことのこと。正しいこと、本当のこと。そう言うと、何やら確かなもののように思われるが、案外そうでもないのかもしれない。本来であれば、真実とは普遍的なものであるべきであろう。だが実際は、人にとっての真実というものは、その人が真実だと認めているものが、その人にとっての真実でしかないのではないか。たとえば、人の起源について考えてみよう。ある人は、神が世界の始まりに人間を創造されたと考えるだろう。またある人は、人は原始の海で発生した細胞が長い年月を経て人に進化を遂げたと考えるだろう。他にも、宇宙人が遺伝子操作で造ったとか、そもそも人間というのは現実には存在せずコンピュータのシミュレーションの中で存在しているに過ぎないとか、もはや私の想像を超えた考えまである。そして、大半は自らの考えが真実であると言って譲らないだろう。もちろん真実が普遍的なものであることに間違いはない。ただ、その普遍的なものが何であるか、どう頑張っても全員が合意に至ることはとても難しい、いや不可能なのではないかと思う。
続きを読む

三度まで

「あなたは信仰を捨てることができるか。」もしこのように聞かれたら、私は何と答えるだろうか。おそらく私はこう答えるだろう。「いや、信仰を捨てることなどできない。」

しかしながら、そう答えたからと言って、必ずしも私が信心深いかと言えば、そういうわけでもないように思われる。それというのも、信仰を捨てる必要もなければ、信仰を捨てたいという特別な理由があるわけでもないから、信仰を捨てないだけだからだ。どちらかと言えば、消極的な理由でしかない。もしくは、神の存在しない世界など考えることができないほどに、信仰が当然のものになっているからとも言えるかもしれない。先に挙げた理由よりは、少しは真面目な理由かもしれないが、やはりこれもどちらかと言えば消極的であることに変わりはないだろう。いずれにしても、私の信仰が受け身に近いものであることが分かってしまいそうなものである。私が信仰を持ち続ける理由は、私が神を熱心に求めているからとか、神のみことばである聖書に従って生きようと願っているからとか、そのような積極的な態度ではない。
続きを読む

オリーブ山の麓にて

聖書の中には劇的な場面が多い。旧約聖書の出エジプト記などは、特にそうであろう。例えば、モーセが海に手をかざすと、海の水が分かれて、彼に導かれたイスラエルの民が水が引いて乾いた海の底を渡ったり、また彼が再び手をかざすと、民を追跡してきたエジプトの軍勢が海に飲み込まれたりとか、数え上げてみればきりがなさそうだ。映画好きの私としては、もしこれらの場面が映像化されたら、どのようなものになるだろうかと考えてみるのも楽しい。もっとも出エジプト記を基にした映画は、すでにかなりの数がある。やはり、それだけ映像にしたいと考える人たちがいるのだろうか。個人的にはドリームワークスの「プリンス・オブ・エジプト」が好きだったりする。聖書に完全に忠実というわけでもないが、それでも神がモーセを通じて、イスラエルの民をエジプトから救い出されたという重要な点はしっかりと描かれている。テーマ曲の”When You Believe”の歌詞も良い。また最近では、2014年に20世紀フォックスが作製した「エクソダス:神と王」もある。こちらはあまり聖書的ではない、と言うか、だいぶ聖書の内容と掛け離れているが、映像は非常に見応えがある。もし自分がその日その場にいたら、このような光景を目にしたのかもしれないと思うと、恐ろしくなってくる。ちなみにそれぞれの作品でモーセの描かれ方が異なっているのも、興味深い。前者では、杖を手にしたいわゆるイメージ通りの神のしもべであるが、後者は、馬を駆け剣を振り回す武闘派のモーセである。さすがに、これは違うだろ、と言いたくなるが、エジプトの王家で育てられたことを考えれば、そのような一面があったとしても不思議ではない。

ところで新約聖書にもやはり、ドラマチックと言えるような場面がある。それは、イエスが捕らえられてしまうところであろう。前回見たところの続きになるが、イエスが弟子たちとまだ話をしているときに、弟子のひとり、ユダが群衆たちを連れてきたところから始まる。それまでイエスの祈る声と、弟子たちの寝息が聞こえるほかには静かだったオリーブ山の麓がにわかに騒がしくなった。
続きを読む