考えすぎない葦

「人間は考える葦である。」誰でも一度は聞いたことがあるだろう。17世紀フランスの思想家であり学者でもあるパスカルの有名な言葉である。「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。」自然の中にあっては、人間など取るに足りない存在であるが、思考という点においては、何物にも勝っているということであろう。人間というのは、思考するからこそ価値があり、存在する意義があるということか。

ところでこのパスカルであるが、クリスチャンでありカトリックの神学者でもあったそうだ。その立場から「パスカルの賭け」という論述を残している。どのようなものかといえば、理性ある人間は神が存在するかのように生活し、神への信仰を求めるのが望ましいという。その理由はこうである。神を信じて生きていれば、もし神が存在した場合、その人は多く(永遠のいのち)を得ることになり、また仮に神が存在しなかったとしても、その人は何も失うことがない。その反対に神を求めずに生きたとして、もし神が存在したら、その人は多くを失う(火の池に投げ込まれる)ことになり、彼が思ったように神が存在しなかったとしても、得るものも失うものもないということである。理性で神の存在を証明することができないため、数学者らしく確率から神の存在を示そうとしたものだった。聖書的な考え方ではないかもしれないが、言っていることは間違っていない。永遠のいのちを得るか、永遠の火の池に投げ込まれるかの二択であるなら、前者を選ぶ方が理性的というものであろう。間違っていたとしても損はしないという選択だ。
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たまごよりだんご

桜が咲いた。文字通り満開である。家の近所の桜並木はこれでもかというほどの花を咲かせているし、夜の帰宅時の電車から見ることのできる大岡川沿いの桜は、露店の煌々とした照明に照らし出さていたり、ぼんぼりのおぼろな灯りに浮かび上がっていたり、遠くから見ても見事なものである。長らく灰色の寒々とした日々を過ごしてきた人々には、暖かな空気に包まれ、淡い桃色の花を纏う桜に春の訪れを感じるのだろう。この時期、桜の木のもとには―失礼な言い方になってしまうようで申し訳ないが―それこそどこから湧いて出てきたのかと思えるくらいに人が集まってくる。個人的な好みの問題でしかのかもしれないが、私は青々とした緑の葉を付けることもなく、ただ花だけを咲かせている桜というのは、苦手である。確かに華やかかもしれないが、どこかバランスを欠いているようで、どうも違和感を感じてしまうのだ。世に言われているような春の訪れを感じるには、何と言うか生命力や活力に乏しいような気がしてならない。

ところで、今日はイースターである。どこまで本気なのか分からないが、商魂たくましい企業などは、この日を玉子を食べる日として世間に広めたいらしい。彼らにしてみれば、イースターと言えば、海外ではイースターエッグが有名だということで、どうやらそれに乗っかろうという気持ちがあるようだ。それにクリスマスと比べると、イースターは盛り上がりに欠けているので商機と見ているところもあるだろう。もっとも多くの日本の消費者にとっては、この時期はお花見に忙しく、今さら玉子を宣伝されてもそれどころではないのかもしれない。この日の本来の意味を知る立場としては、イースターの認知度がクリスマスほど高くないのを残念に思う反面、誤った知られ方をしていないことはありがたいことだとも思う。
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絶滅危惧種

先日、世界に三頭しかいないというキタシロサイの一頭が死んだ。死んだのはこの世に生存していた最後のオスだったそうな。残りの二頭はメスなので、この時点で絶滅することが確定した。スイスに本部を置く国際自然連合によると、おおよそ二万種の生物が絶滅危惧種として認定されているそうだ。種が絶滅するのは自然の流れのなかではやむを得ないことなのであろう。今でこそ人類は繁栄を誇っており、地球上で最も優位に立っている存在であると言っても言い過ぎることはないだろうが、そんな人類でさえいつかは「絶滅危惧種」になってしまうという可能性も否定はできないだろう。急激な気候変動、巨大火山の噴火、小惑星との衝突、致死率の高い感染症、等々……未だかつて人類が遭遇したことのない自然災害が発生するかもしれない。もしくは人類が自らの過ちから何らかの事象を引き起こし、自らの破滅を導いてしまうことも、自然災害よりも確率は低いかもしれないが皆無ではないだろう。

その一方で、技術は日々進歩している。人類の英知をあわせれば、これらの問題を回避することも不可能ではないだろう。気候変動を抑止する方法を見出せるだろうし、火山の噴火を予測することができれば、事前に安全な場所に避難できるかもしれない。地球に衝突しそうな物体があれば、その軌道をずらすこともできよう。あらゆる疾病に対する治療方法も見出されるかもしれない。また人類も過ちを犯すことなく共存共栄の道を歩んでいるかもしれない。場合によっては、不死とは言わないまでも不老長寿を達成しているだろう。やがては人類は永遠に存在し続けることができるようになるのではないか。そう思えてしまう。しかし、終わりは必ずやってくる。50億年後、太陽の寿命が尽きる頃、地球は太陽に飲み込まれてしまう。火星に逃げても無駄である。木星、土星、まぁ、少しは生き延びられるかも。だが、太陽が死んでは、人類は生きていけない。もっとも、その時までに別の太陽系に移住していれば、話は別だが。
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迫害されていない時こそ

我が国、日本におけるクリスチャンの人数が人口の1パーセントにも満たないというのは、今さら言うまでもないだろう。なぜなのか、考えてもみれば不思議なことである。中東のイスラム諸国や、北朝鮮のような権威主義体制が敷かれている国々においては、国家や体制が定めた中での限定的な信仰が認められているか、もしくは信仰の自由などまったく認められていないというのが現実である。普段はあまり考えないが、キリスト教に対する迫害というのは、今現在も続いているのだ。ある米国のNPOの調査によると、クリスチャンに対する迫害が最も激しいのは、イスラム主義が主流の中東の国々ではなく、実は日本の隣にある北朝鮮であるという。

幸いにも海をひとつ隔てた我が国では、信教の自由が以下の通り憲法で保障されている。「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」(日本国憲法第20条第1項)当然ながらクリスチャンであるということで迫害されることは、まずない。実際、私は自身の信仰を別段隠しもせずに公けにしているが、それが原因で他者から否定的な反応をもらったことがない。珍しいとか、意外だとか、場合によってはなぜだか褒められたりとか、肯定的に見られている。
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本物を知る

「フランクミュラー」と言えば、スイスの高級機械式時計メーカーである。一番安いものでも数十万円、市場に出回っているなかで高いものになると、数千万を超える。それこそ新築の家と新車を一緒に購入しても、まだお釣りがくる程の値段である。とてもじゃないけど、私なんかが買えるようなシロモノではない。でも腕時計が好きな私としては、いつかはそれなりの機械式時計が欲しいとは思う。もっともフランクミュラーは好みのスタイルではないので買おうとは思わないが。いや、負け惜しみじゃなくて、ホントに。

ところで、日本には「フランク三浦」という腕時計のブランドがある。もちろん、前者のパロディである。商標登録をした際に、本家のフランクミュラーと訴訟問題に発展したこともあって、一時期話題になったこともある。ついでに言っておくと、フランク三浦側の勝訴となったそうだ。片や数十万から数千万の高級時計、片や数千円でカタカナと漢字で「フランク三浦」(しかも「浦」という字は、わざと間違えている)と書かれいてる時計であり、両者が混同される可能性は考えにくいというのが判決理由らしい。まぁ、もっともな話である。これで間違える人がいたら、どんだけ抜けてるのか、ってところだ。それにフランク三浦側は、はっきりとパロディであると言っているのだから、模造品でもなければ、偽物でもない。
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