神のものはすべて

日本におけるクリスチャンの総数は人口の1パーセントであるという。単純に考えれば百人集まれば、そのうち一人はクリスチャンということになるが、私の感触では、百人集まったとしても、一人がクリスチャンである可能性はかなり低いのではないかと思う。はたして自分がクリスチャンであることを隠して生きているから、少なく見えてしまうのか。とはいえ、見た目だけでクリスチャンかどうかを判断するのは難しいだろう。私だって知らない人から見れば、クリスチャンかどうか分からないだろう。もちろん、人から聞かれたら、そうだと答えるが。

そんなわけだから、街の中で教会とは離れた場所でキリスト教っぽいものを見ると、いったいどこにクリスチャンが潜んでいるのかと不思議に思ってしまうこともある。たとえば先日も、食事をしようと雑居ビルの中にある店に行ってきたのだが、エレベーターの中に十字架が貼り付けてあったのを見つけてしまった。あれはあれでなかなかインパクトがある。なんせ接着剤でエレベーターのドアの上にところにしっかりと付けられていたのだから、さすがにクリスチャンの私の目から見ても、何やら異様な雰囲気であった。ほかにも、意外なところでクリスチャンミュージックを耳にすることもある。私の想像だが、音楽を流している人はそれと知らずにやっているのだろう。洋楽というだけで、あえてその歌詞までは気にしていないのかもしれない。たとえば、先日近所のイオンに買い物に行ったのだが、どこかで聞いたことのある歌が流れていた。日本語に訳すとこんな感じだ。「私を愛するために生き、私を救うために死なれ、私の罪を遠くに運び去るために葬られ、私を義とするためによみがえられた。いつの日か主は帰ってこられる。なんと栄光に満ちた日だろうか、なんと栄光に満ちた日だろうか。」疑う余地がないほどにクリスチャンの歌である。この曲が収録されたCDを私は持っているのだから、間違いない。英語圏の人がいたら、イオンはキリスト教系の店だと勘違いしてしまうに違いない。
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天にある喜び

移動や出張などで外で食事をするとき、私がよく選ぶのは、パスタや中華料理、それにタイ料理である。どれもあまり家で食べることができないからだ。そうでなければカレーか唐揚げだったりする。これは家でも食べることができるが、単に私の好きなものであり、色々と食べ比べてみたいからでもある。

そんなこんなで、先日も昼食を何にしようかと電車に揺られつつ考えていたのだが、なんとなく心はスパゲティに傾いていたので、パスタ屋に入ってみた。メニューを眺めつつ、あれやこれやと考えた。カルボナーラも食べたいが、カロリーが高過ぎそうだ……ペペロンチーノも捨てがたいけど、これから打ち合わせだというのにニンニクのにおいをさせるのも申し訳ない……オーソドックスにミートソースも良いかもしれない、が、ワイシャツにトマトソースがはねると染みになってしまうので、これも平日の昼間に食べるのはちょっとためらわれる。ということで最終的に落ち着いたのは、海老とモッツァレラのトマトクリーム。絶品というほどではないにしても、優雅なディナーというわけでもなく仕事の合間の昼食としてなら、まずまず納得できる味と量であった。だが、どうも何か物足りない。腹八分目ということを考えたら満足なはずではあるが、満足感が得られないのである。店を出て歩きつつ、中華屋の前を通り過ぎるとき、やはり中華料理にするべきだったかと、ちょっとばかり後悔をするも、食べ終わってからではすでに手遅れである。
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覚悟を決めて

昭和四十七年から今日に至るまでずっと富岡に住んでいる―まぁ、途中で数年ほどアメリカに住んでいたのを除くとして―私にとっては、電車と言えばやはり京急線が一番身近な存在である。最寄に他の路線がないので、車を使わないのであれば、出掛けるときは京急以外の選択肢はない。JRと比べて滅多なことでは止まらないし、かなり遅い時間まで走っているので、ありがたいことにこれといって不便に感じたことがない。昔は赤い車体に白い線がお馴染みであったが、今は青色だったり、黄色だったり、未塗装のステンレス合金のままだったりと、バリエーションが豊富になっている。

電車の運行の種類も増えたもので、夜の下りしか運用されていなかったウィング号が、今では朝の上りでも運用されるようになった。朝は時間の都合もあって、ウィング号に乗るような機会はないのだが、都内での仕事があった帰りには、京急品川駅3番線でウィング号が発車待ちで停まっているのを見ると、つい乗ってみようかと考えてしまう。たったの三百円で上大岡まで座って帰れるのであるから、それは便利だ。だが、私は滅多なことでは乗らないのである。いや、チケット代の三百円を惜しんでいるわけではない。いくらけちな私でも、そこまでどけちではない。実は、品川から上大岡まで停まらないというウィング号の一番の売りが、私が乗らない一番の理由なのである。途中停車しないということは、つまり途中でトイレに行けないということだ。東海道線なんかはトイレがあるから安心なのだが、京急ではその安心がない。京急にしてみれば、そんな長距離を走るわけではないのだから、わざわざ設置しようなどとは思わないだろう。いずれにせよ乗客が途中下車をすれば済む話だと言われたら、それはそれで納得できるのだが。
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宴に招かれ

久しぶりにペンを取る……なんてちょっとばかり知的なフリをして、そんな言葉を言ってみたいところであるが、残念ながら私の場合はちょっと違うか。ともあれ改めて考えてみれば、最後にこれを書いたのは去年の夏の終わりの頃だったような。ところがどうであろうか、気づいてみたら、まだ朝晩は寒さを残すものの日差しに暖かさを感じられる陽気になっているではないか。半年近くも何も書かないで過ごしてきたわけだ。いや、何も書かなかったというのは言い過ぎかもしれない。もちろん事務的なものや実務的なものは多く書いてきたわけだが、自分の考えだけをネタにして、ゼロから書いていくという、創造的なものは原稿用紙一枚ほども書いていなかったということである。

それにしても、久しぶりにこのように書いていると、ふと妙な感覚に捕らわれてしまう。うまくは言えないが、何やら敗北感とでもいうような、誰かに、もしくは何かに負けたような気持になってしまうのだ。もちろん、人と争っているわけでも、誰かと競っているわけでもない。そんなのは明らかである。そうは言っても、遅れをとったように感じられるのだ。おそらくであるが、休むことなく創造的なことを書き続けたであろう、実在しないもうひとりの自分に対して引け目を感じているのかもしれない。そのもう一人の自分は、現実の私よりも、六か月の間休まずに書き続けたことによって何かを得ているに違いない、それが何かは現実の私には分からないが。もちろん、私だって単に面倒くさくなって書かなかったわけではない。仕事が忙しくて書けなかっただけだ。しかし、結果として何もしなかった私よりは、何かをした私のほうが、少なくとも何らかの達成感は得ていることだろう。
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錬金術

昨年の世相を表す漢字として選ばれたのは「金」であった。昨年はオリンピックが開催され、日本は金メダルを12個獲得し、史上4番目であった。さらに銀や銅も含めたメダルの総数でいえば41を獲得したということで、史上最多という結果を残した。四年後開催の東京オリンピック、明るい日本への願いを込めた漢字ということで選ばれたという。この字を見て、「キン」と読んだ人はおそらくそのような考えを持っていることだろう。ところで私はどうかといえば、「カネ」と読んでしまった。ちなみに「金」の字が選ばれた他の理由は、前東京都知事の政治資金問題、築地市場移転問題、さらには同じオリンピックの話題でも巨額経費問題が挙げられている。どうやら「金」という字から「マネー」を連想するのも、あながち間違いではないらしい。ちなみに私が「カネ」と読んでしまった理由は、別に社会的な問題がどうのこうのというのとは、まったく関係ない。純粋に私の財布の事情から、そのように読んだまでである。

そういえば、子供の頃、正月のメインイベントと言えば、お年玉をもらうということであったような。あの頃は、もらえるということだけを期待すれば良かっただけだから、今になって振り返って考えてみれば、実に気楽なものである。今はひと月働けば、お年玉でもらっていた金額の何倍ものお金が手に入るのだが、その一方で出て行くお金も同じく何倍にも増えていることもあってか、気楽とはほど遠い。それどころか、悩みの種でさえある。
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