三度まで

「あなたは信仰を捨てることができるか。」もしこのように聞かれたら、私は何と答えるだろうか。おそらく私はこう答えるだろう。「いや、信仰を捨てることなどできない。」

しかしながら、そう答えたからと言って、必ずしも私が信心深いかと言えば、そういうわけでもないように思われる。それというのも、信仰を捨てる必要もなければ、信仰を捨てたいという特別な理由があるわけでもないから、信仰を捨てないだけだからだ。どちらかと言えば、消極的な理由でしかない。もしくは、神の存在しない世界など考えることができないほどに、信仰が当然のものになっているからとも言えるかもしれない。先に挙げた理由よりは、少しは真面目な理由かもしれないが、やはりこれもどちらかと言えば消極的であることに変わりはないだろう。いずれにしても、私の信仰が受け身に近いものであることが分かってしまいそうなものである。私が信仰を持ち続ける理由は、私が神を熱心に求めているからとか、神のみことばである聖書に従って生きようと願っているからとか、そのような積極的な態度ではない。
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オリーブ山の麓にて

聖書の中には劇的な場面が多い。旧約聖書の出エジプト記などは、特にそうであろう。例えば、モーセが海に手をかざすと、海の水が分かれて、彼に導かれたイスラエルの民が水が引いて乾いた海の底を渡ったり、また彼が再び手をかざすと、民を追跡してきたエジプトの軍勢が海に飲み込まれたりとか、数え上げてみればきりがなさそうだ。映画好きの私としては、もしこれらの場面が映像化されたら、どのようなものになるだろうかと考えてみるのも楽しい。もっとも出エジプト記を基にした映画は、すでにかなりの数がある。やはり、それだけ映像にしたいと考える人たちがいるのだろうか。個人的にはドリームワークスの「プリンス・オブ・エジプト」が好きだったりする。聖書に完全に忠実というわけでもないが、それでも神がモーセを通じて、イスラエルの民をエジプトから救い出されたという重要な点はしっかりと描かれている。テーマ曲の”When You Believe”の歌詞も良い。また最近では、2014年に20世紀フォックスが作製した「エクソダス:神と王」もある。こちらはあまり聖書的ではない、と言うか、だいぶ聖書の内容と掛け離れているが、映像は非常に見応えがある。もし自分がその日その場にいたら、このような光景を目にしたのかもしれないと思うと、恐ろしくなってくる。ちなみにそれぞれの作品でモーセの描かれ方が異なっているのも、興味深い。前者では、杖を手にしたいわゆるイメージ通りの神のしもべであるが、後者は、馬を駆け剣を振り回す武闘派のモーセである。さすがに、これは違うだろ、と言いたくなるが、エジプトの王家で育てられたことを考えれば、そのような一面があったとしても不思議ではない。

ところで新約聖書にもやはり、ドラマチックと言えるような場面がある。それは、イエスが捕らえられてしまうところであろう。前回見たところの続きになるが、イエスが弟子たちとまだ話をしているときに、弟子のひとり、ユダが群衆たちを連れてきたところから始まる。それまでイエスの祈る声と、弟子たちの寝息が聞こえるほかには静かだったオリーブ山の麓がにわかに騒がしくなった。
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金曜の夜

金曜の夕方がやってきた。一週間の終わりである。色々と課題は残ったままだけれども、ひとまずそれはそれで置いておくとしよう。一度に全部を片づけることなどできない。時間を掛けて少しずつ片づけていけばよい。ひとまず直近で早々に対処しなければならないことさえ終わっていれば問題ない。積み残しがあったとしても、誰かが著しく困るわけでもなければ、ましてや世界が終わるわけでもない。ということを考えつつ家に帰る。気分転換をしたり、気晴らしをしたり、疲れを癒したり。そんな気持ちになる。たとえば、帰りにデパートの地下でもスーパーでもコンビニでも構わない、何やら気の利いた惣菜でも買って、それを肴にビールかワインか日本酒を少しばかり……あぁ、スモークチーズなんて、どれにでも合いそうだなぁ。そして、なんとなくテレビで放映されている番組で面白そうなのを見るとか、DVDを借りてきて前々から見たかった映画を見るとか……なんせ見たい映画がいっぱいあるので選ぶのに困ることはないだろう。そうやって難しいことを考えずに、気の向くままに過ごして、最後は眠くなったら寝る。なんて、そんな贅沢なことをしてみたい。たいしてお金が掛かるような贅沢ではない、金曜の夜に限ってでも構わない、ほんの数時間の余裕があれば簡単に得られるものである。とは言っても、それだけの数時間を手に入れることができないのが、現実である。

まぁ、そんなことをぼやいたところで仕方がない。時間がないというのは、所詮ただの言い訳にしか過ぎないのかも。考えてもみれば、時間というのは誰にでも同じだけ与えられているはずだ。それを足りないとか、自由に使えないとか感じるのは、要するに自分の時間の使い方がマズいだけなのかもしれない。
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絶対ない

絶対ない、ありえない。そのように始めから何かを決めつけるかのようなものの言い方は良くないとは、広く言われていることであろう。とは言え、世の中には可能性がゼロではないにしても、限りなくゼロに近い物事はそれなりにあるだろう。ところで私のヘンな趣味のひとつに、そのような限りなく「ありえない」ようなことがもし起こったらどうなるだろうか、と考えることがある。まぁ、しょうもない妄想だと思って構わない。

例えば、先日実家の庭木の剪定を手伝いに行ったのだが、ゴミに出し易いようにと、切り出した太い枝から細い枝を掃っていると、手にしていた枝がだんだん棍棒みたいになってきた。そんな自家製の棍棒を見ていたら、ふとこんなことを考えてしまったのだ。もし、今ゾンビが襲ってきたら、この棍棒で戦うことができるだろうか、なんてことを。いや、ゾンビがどれほど強いのかまったく見当もつかないが、さすがに木の棍棒でぶっ叩いても、たいしたダメージを与えられそうにないような……ここはやはり、棍棒に釘とか何らかの金属片を打ち込んで、もっと打撃力を上げた方がよいだろうか。でも、釘が抜けちゃったらどうしようか、そうか、穴を開けて、ぶっといボルトを通してナットで固定すればそんな心配もないか……いや、そもそもゾンビなんていないじゃないか、なんて夢の無いことは考えない。ゾンビを見たことがないだけであって、だからと言ってゾンビがいないというわけでもないだろう。なんてことを考えてしまうのだ。わずかでも可能性があるとすれば、それが限りなくゼロに等しいものだとしても、「絶対にありえない」とは言い切れまい。
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ペテロの不安

ここしばらく、最後の晩餐の場でイエス・キリストが弟子たちに語ったことを見てきた。イエスが弟子たちと最後に過ごす晩に彼らに語ったことは、イエスにしてみれば、どうしても弟子たちに聞いておいてもらいたい、彼らに知っておいてもらい、とても重要なものであったろう。イエスはこの夜が彼らと共に過ごす最後になるのを知っていたのだから、どうしてもこれだけは伝えておかなければならないと、そう考えていたに違いない。イエスでなくとも、誰でも今日が最後であることを知っていれば、大事なことを後に残る人々に伝えておきたいと考えるはずだ。例えば、仕事の引継ぎなども同じようなものだろう。私がそれまでやってきたことを、次に担当する人に伝えておくというのは、当然のことだ。さもないと、何かと支障が出てしまう。イエスは神の国の福音を伝えるという、重大な責務を負っていたのだからなおさらだ。

ところでその食事の時に、イエスはシモン・ペテロに呼びかけてこう言った。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカの福音書22章31~32節)
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