生けるものの神

「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1章1節)まず初めに、神はこの世界とそこに住むすべての生き物を造られた。神がどのようにそれを達成されたのか、それは人間には知ることのできないことであろう。もしかしたら、そもそも知る必要がないことなのかもしれない。人間が憶えておくべきは、神がこの世界をゼロから造りだし、そして神がそれをご覧になったときに、それは非常によかった、と神は納得し、そして満足したということであろう。

この天地創造の箇所が、私は好きである。それというのも、神のなされた数々の奇跡のうち、これだけが今でもその痕跡を見ることができるからだ。いや、もしかしたら神の奇跡というのは他にも多くの場面において見ることができるのかもしれないが、私程度の信仰ではそれもなかなか難しい。しかし、果てしなく広がる空に、地上を明るく照らすの太陽の光、暗い夜空に輝く月や星々、枯れて葉を落とした木々の向こうに見える、遠くの山々の頂に積もる雪、高台から見る海の群青色……どれひとつとっても神が造られたものと思えば、神というものは、けっして離れたところから人の行いを見ているだけの遠い存在ではなく、もっと身近でかつ現実の存在であることを、改めて思い起こすのである。その神が造られたものは、良いものであった。神ご自身がそう言っている。確かに、神は中途半端なものを創造しなかった。神の創造された万象のうち、無機質なものは別として、すべてに命が与えられていたではないか。「ついで神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。』すると、そのようになった。」(同29~30節)
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荒野でのこと

日本海を見に行く、というのが昨年の私の目標であった。残念ながら、達成することができないまま新しい年を迎えてしまった。なぜ日本海を見に行くという目標にしたのか……正直に言えば特別な理由など何もない。単純に、今まで日本海を見たことがないからという、ただそれだけである。仕事が落ち着いたら、お金に余裕ができたら、などと考えていたが、現実はそれほど甘くはなかったのである。日本海どころか、昨年の暮れには、県内に一ミリたりとも海岸線がない栃木県に長期出張という、まったく想像すらしていなかった目に遭ってしまった。仕方がないと言えば、仕方がない。ちなみに、数年前に体重を減らすという目標を立てていたこともあったが、昨年はそれを達成することはできた。もちろん、体重を減らすというのは、とうに諦めていたというか、どうでもよくなっていたので、あえてそれを年間の目標にしようなどとは思わなかったのだが。不思議と、目標に挙げることをやめたら、達成できてしまった。一年の計は元旦にあり、と言うが、さて今年の目標は何にしたものか。

ところで今年こそは何をしようかとか、何ができようかとか、そんなことを考えたとしても、一年365日という限られた時間の中で何かを成し遂げるというのは、なかなか容易なことではないようにも思えてくる。それとも、私の努力が足りないだけなのだろうか。何かをしようと決めても、結局は何もしないかもしれないことへの、ただの言い訳なのだろうか。そんな一年のことで悶々としているとき、ふと思い出したことがある。遠い昔、荒野を四十年間さまよったイスラエルの民がいたということを。
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つまずきの石

律法学者や祭司長などの指導者たちとの対立の後、イエス・キリストは人々にあるたとえ話をされた。その場に集っていた人々に向かって話をしたということは、当然ながらイエスとの議論に決着をつけることができずに不満に思っていた指導者たちも、まだそこにいたに違いない。イエスの話されたたとえはこうであった。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」(ルカの福音書20章9~16節)

そしてイエスの話を聞いて、人々はこう言った。「そんなことがあってはなりません。」(同16節)
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答えない神

商人たちを神殿から追い出した後、イエス・キリストはようやく落ち着くことができたに違いない。神の宮で、神のみことばを人々に教えるという、神と人との橋渡し役としての務めを果たすことができるようになったのだから。ところで、ルカの福音書にはこのように書かれている。「イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、どうしてよいかわからなかった。民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである。」(ルカの福音書19章47~48節)イエスや民衆たちが神殿で過ごす日々に満足していた時、どうやらそのような状況に納得することのできない人々もいたようである。宗教家に律法学者、それに指導者たちは相変わらずイエスに対して不満を抱いていたようである。いや、イエスの命を奪おうと画策していたことを考えると、単なる不満というものではなかっただろう。それは憎しみというべきものだったのかもしれない。彼らにとってはイエスや彼に従う者たちと和解をするというのは、そもそも選択肢としてなかったのであろう。もはや、彼らにとってイエスを排除することのみが、大げさに言えば、人生の目的になっていたのかもしれない。しかしながら人々がイエスに傾倒している現状では、そうすることも難しかった。まずは人々の心をイエスから引き離さなければならなかった。さもないと、このままでは群衆を敵に回すことになってしまい、それでは彼ら自身の立場はもちろんのこと、命そのものが危うくなってしまうだろう。

指導者たちは、まずはイエスを責めるだけの正当な理由が必要だった。イエスがいつものように人々に話していると、彼らはやってきてイエスにこのように聞いた。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」(同20章2節)
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神なき神のすまい

イエス・キリストは情が厚い人だった。彼は喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しむ、そのようなお方だった。神はけして雲の上の高みから人々の営みを眺め、地上の人々がどのように感じているかということに無頓着なお方ではない。神はイエス・キリストというひとりの人として、この地上で人々と共に生活し、人々の喜怒哀楽を分かっているのである。またそのような人々の思いに共感される心の持ち主であった。私などは情が薄く、人がどう感じていようと、それはその人の問題であって私の問題ではないから、と無関心でいるだろう。要するに私にとって人の喜怒哀楽というのは、どうでもよいことなのである。ことさらそれで不便を感じたこともなければ、申し訳ないと考えたこともないので、まぁ、これが私の性格なのだろうと思う。救い主であり神でもあるイエス・キリストが私のような薄情ものでないことは幸いである。

さて、イエス・キリストの情というのは、彼の周りにいる人々に対しての慈しみとか、哀れみとか、そのようなものに端を発していることが多いように思われる。もちろん、彼が情に流されやすいとか、そういう単純なことではないだろう。おそらく彼にとっては、彼自身がどのように感じているかということよりも、周りの人々の思いに心が向いてしまうだけなのかもしれない。自分の思いや感情を抑えているというわけでもないだろうが、どちらかと言えば他人の気持ちに共感すること、他人の思いを知ろうとすることを大事にしていたのだろう。
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