すべてにおいて

聖書には、このように書かれている。「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(第一テサロニケ5章18節)すべてのことについて感謝しなさい。まぁ、それが良いことであろうことくらいは分かっている。しかしながらそれを実践するのは、どうも難しそうに思えてならない。例えば、である。終電がなくなるまで仕事をして、家に帰ることも出来ずに、ネットカフェで夜を過ごして、翌朝また会社に出掛けて行く。ひと月の間に何度かそんなことをしている状況を感謝に思えるかというと、いや、私には無理だ。屋根の下で夜を過ごせることは感謝してもよいのかもしれないが、家があるのに家に帰れないというのは、恨めしく感じることはあっても、感謝には思えない。

ところがここで言っている「すべての事について、感謝しなさい」ということばの意味は、私が先に書いたようにとらえるべきではないだろう。誰しも嫌な思いをすることがあれば、辛い目に遭うこともある。それらのことを、いちいちありがたがっていたら、おそらく性格の歪んだ人間になってしまうだろう。まさか神がそのようなことを人々に望んでいるとは思えない。参考までに同じ箇所を英語の聖書で読むと、このように書いてある。”In every thing give thanks”(KJV)または”give thanks in all circumstances”(NIV)日本語で言うのであれば、すべてにおいて感謝しなさい、もしくは、あらゆる状況において感謝しなさい、という意味になろう。
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迷いのある者

義人はいない、ひとりもいない。聖書のどこだったか、そのようなことが書いてあったと思う。そうだ、ローマ人への手紙だった。正しくはこうだ。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3章10~12節)たしかに、私もこのことばには納得である。いや、誰かのことを思い浮かべそう思うのではなく、自分自身を顧みたときにそう感じるのだ。私は自分のことを正しい人間だとは思わない。それどころか、キリストを救い主として受け入れて二十数年経とうかというのに、まだまだこの世界の様々なことに心を奪われてしまう。いや、むしろ信仰を持った最初の頃の方が、今よりもマジメだったかもしれない。

もし理想を追求するのであれば、ここで悔い改めて、真理を得て、神を求め、善を行うようになるべきなのだろう。だが、実際はそうではない。現実は、悔い改めるどころか、神を求めず、自分の願いをどうすれば実現することができるかと考え、善を行うと言っても、それは独善的な考えでしかなかったりするのだ。そこで気づいて後悔するのなら、まだ許してもらえるのかもしれないが、ふん、だからどうした、生まれついての罪人なんだから仕方ないじゃないか、と開き直ってしまうのだから、どうにもタチが悪い。
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門が閉まる前に

通勤途中で目にする日常……電車に乗って発車するのを待っていると、ドアが閉まる直前に駆け込んでくる人たちがいる。駅の階段をホームに向かって上っていると、電車が着いたと知るや、急いで駆けていく人たちがいる。そんなに急いでどうしようというのか。乗り遅れたら、次の電車で行けばいいじゃないとか、私なら考えてしまうのだが、どうやらそう考えない人たちも結構いるのだ。何と言うか、いい歳をした大人が公衆の面前で慌てて走っている姿というのは、みっともないものであると私は思っている。誰かに追われているとか、誰かを追っているとかならまだ分かるが、さすがにそんなシチュエーションは普通ではないことであろう。要するに時間に余裕を持って動いていれば、電車を一本逃したところで、何も困ることはない。言い換えれば、慌てているということは、ぎりぎりの時間で行動しているということで、それだけ計画性の甘さが露呈していることに他ならない。そんな姿を晒すくらいであれば、潔く遅刻する方が私としてはまだ許せる。もっとも、私が走る姿を見たとしても、人は何とも思わないだろうけど。

とは言え、何事においても例外というのはある。この場合、それは終電だ。終電を逃しては、家に帰り着くことができない。終電を目指して猛ダッシュをする大勢の人たちを、みっともないと言ってしまうのは、ちょっと酷かもしれない。何せ次がないのだから、待つという選択肢がない。もし待つなら、翌朝まで待たなければならない。だが、それでも大丈夫という人はほとんどいないであろう。終電に間に合うかどうか、運命の岐路、とまでは行かなくとも、本人の気持ちとしてはそれに等しいものがあろう。では、私ならどうするかと言えば、終電に間に合うかの瀬戸際だと知れば、おとなしく会社で夜を明かすだろう。
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パラダイス

楽園、もしくはパラダイスと聞いたときに、まず私の頭に浮かんだのは「スイーツパラダイス」である。スイーツとパスタなどの軽食の食べ放題のお店である。とは言っても、さすがに甘いものが好きな私でもスイーツばかり出されると、ちょっと困ってしまう。甘いものばかりだと、満腹になる前に味覚が麻痺してしまいそうだ。やはり腹が減っているときには、もっとちゃんとしたものを食べたいものだ。そうだな、スイーツではなく肉のパラダイスでもあれば文句なしだ。すき焼き、しゃぶしゃぶ、焼き肉、ソーセージにベーコン、ハンバーグにメンチカツ、唐揚げに焼き鳥……あぁ!好きな肉料理を心いくまで食べることができるのであれば、それこそパラダイスであることに間違いなし。そして、私の腹回りは贅肉のパラダイスになってしまうこと必至である。

それにしても、楽園とかパラダイスなどと言うと、俗的なイメージが先走ってしまいそうである。しかしながら、聖書で楽園と言えば、神が天地を創造されたとき、アダムとエバを住まわせたエデンの園のことを示す。(ちなみに、パラダイスの語源はペルシア語の庭であり、ギリシア語訳された旧約聖書でも使われている。)そしてエデンとは単なる庭というだけではなく、神が創造された、神の庭でもあった。後から追放されることにはなったが、一度は人もそこに住まうことが許されており、そこに実るあらゆる果実を食すこともできたのである。楽園と言えば、人の欲望を満たすことのできる場所と考えてしまいがちだが、本来の意味に遡るのであれば、パラダイスとは神の園なのである。
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世にある、世にあらぬ

“To be or not to be, that is the question.”とは、シェイクスピアの戯曲ハムレットの中で、おそらく最も知られているセリフだろう。私もハムレットを見たことはないし、その内容も大ざっぱにしか知らないが、なぜだかこのセリフだけは知っている。おそらく学校の授業か何かで聞いたことがあるのだろう。一般的には「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」と和訳されていることが多いようだが、物語の流れをどのように捕らえるかで、様々な解釈があるらしい。ちなみにシェイクスピア全集を翻訳した坪内逍遥によると、このセリフは「世にある、世にあらぬ、それが疑問ぢゃ」となっているそうだ。なるほど、英語の使い方という観点からすれば、たしかに正しい訳とも言えよう。

ハムレットの抱えていた問題ほど真剣でもなければ深刻でもないが、おおよそ人というのは生活をしていれば、例えば、目玉焼きには醤油をかけるかソースをかけるか、電車では降りやすいようにドアのそばに陣取るか人の少ない奥の方に陣取るか、などのように日常の様々な場面においていかなる選択をするべきかと考えることがあるのではないか。かく言う私などは、床屋に行くべきか、行かないべきか、それが悩ましいという具合である。しばらく咳が治まらなかったので床屋に行くことができなかったわけだが、おかげで髪が伸び放題で見苦しいものだ。このまま床屋に行って、短くしてもらえばそれでさっぱりしそうなものだが、なんか中途半端に伸びてくると、せっかくだから伸ばしてみようかなどと思ってしまうのだ。さてどうしたものか、実に悩ましいものである。
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