二枚の銅貨を投げる

私がキリスト者になってからというもの、神社にお参りに行くことはなくなってしまった。では、キリスト者になる前は、ちゃんと神社にお参りに行っていたかというと、実はそういうわけでもない。まぁ、19歳の時にアメリカに行ってしまったからというのも理由かもしれないが。それ以前の記憶では、せいぜい正月に初詣に行ったくらいか。そして初詣と言っても、元旦にではなく、数日くらい経ってからだったような気がする。ところで神社にお参りと言えば、ケチな私はお賽銭を連想してしまうのだ。お賽銭はいくらぐらいが適当なのか。やはりご縁があるようにということで、五円がいいのだろうか。年始のニュースなどで、お賽銭箱の中身を神社の職員の方々が整理している場面がたまに放映されるが、そこで一万円札とかを見ると、結構な額を投げている人がいるのだなぁと、ちょっと神社がうらやましくなってしまう。やはり額は多い方がいいのだろうか。

ところで実際のところ、額はあまり重要ではないらしい。一説では、お賽銭とは「神様」(聖書のじゃないよ)への感謝のしるしであるらしい。またある説では、自らの汚れや邪気を金銭に託して清めるという意味もあるとか。キリスト者の視点から見れば、供え物としてのお賽銭と、いけにえとしてのお賽銭という考え方があるように思われる。いずれにしても、願いをかなえてもらいたいがために金銭で「神様」を買収するという意味はないらしい。願い事の大きさと金額は比例しないということか。
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長い言葉

前にも書いたかもしれないが、私は新製品とか、期間限定とかいう言葉に弱い。それに加えて割引となっていると、さらに興味が増してしまう。ところで先日、駅前のコンビニに行ったら「パン全品20円引き」となっていた。ちょっと小腹が空いていたこともあり、何か甘いものを食べたい気分にもなっていたので、蟻が甘い蜜に導かれてしまうかのように、つい足がコンビニへ向かってしまった。新製品のパンが20円引き……おぉ、なんと素晴らしいことなのか。新製品の菓子パン……あぁ、なんたる甘い響き。しかも、あんぱん好きの私にとっては、その甘い誘惑から逃れることができない小豆、つまりは餡子が使われているではないか。これは買うしかない。でも、ひとつだけ買ってしまうと、家族で分けたときに自分の取り分が減ってしまうので、それは避けるべきだ。ということで、同じものを二つ買うことにした。これで、合わせて40円引き。なんだかすごい得した気分である。まぁ、ホントは、必要のない出費をしただけなのかもしれないけど。

そのパンの名は「よもぎ求肥と小豆を包んだ/よもぎと小豆のちぎれるぱん」である。ちなみにひとつ119円、なんと20円引きすると99円、ぎりぎり二桁で収まる値段ではないか。もちろん、税抜価格なので実際には100円を超えてしまう。だが、そんなことを考える理性など残されているわけがない。
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生けるものの神

「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1章1節)まず初めに、神はこの世界とそこに住むすべての生き物を造られた。神がどのようにそれを達成されたのか、それは人間には知ることのできないことであろう。もしかしたら、そもそも知る必要がないことなのかもしれない。人間が憶えておくべきは、神がこの世界をゼロから造りだし、そして神がそれをご覧になったときに、それは非常によかった、と神は納得し、そして満足したということであろう。

この天地創造の箇所が、私は好きである。それというのも、神のなされた数々の奇跡のうち、これだけが今でもその痕跡を見ることができるからだ。いや、もしかしたら神の奇跡というのは他にも多くの場面において見ることができるのかもしれないが、私程度の信仰ではそれもなかなか難しい。しかし、果てしなく広がる空に、地上を明るく照らすの太陽の光、暗い夜空に輝く月や星々、枯れて葉を落とした木々の向こうに見える、遠くの山々の頂に積もる雪、高台から見る海の群青色……どれひとつとっても神が造られたものと思えば、神というものは、けっして離れたところから人の行いを見ているだけの遠い存在ではなく、もっと身近でかつ現実の存在であることを、改めて思い起こすのである。その神が造られたものは、良いものであった。神ご自身がそう言っている。確かに、神は中途半端なものを創造しなかった。神の創造された万象のうち、無機質なものは別として、すべてに命が与えられていたではないか。「ついで神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。』すると、そのようになった。」(同29~30節)
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荒野でのこと

日本海を見に行く、というのが昨年の私の目標であった。残念ながら、達成することができないまま新しい年を迎えてしまった。なぜ日本海を見に行くという目標にしたのか……正直に言えば特別な理由など何もない。単純に、今まで日本海を見たことがないからという、ただそれだけである。仕事が落ち着いたら、お金に余裕ができたら、などと考えていたが、現実はそれほど甘くはなかったのである。日本海どころか、昨年の暮れには、県内に一ミリたりとも海岸線がない栃木県に長期出張という、まったく想像すらしていなかった目に遭ってしまった。仕方がないと言えば、仕方がない。ちなみに、数年前に体重を減らすという目標を立てていたこともあったが、昨年はそれを達成することはできた。もちろん、体重を減らすというのは、とうに諦めていたというか、どうでもよくなっていたので、あえてそれを年間の目標にしようなどとは思わなかったのだが。不思議と、目標に挙げることをやめたら、達成できてしまった。一年の計は元旦にあり、と言うが、さて今年の目標は何にしたものか。

ところで今年こそは何をしようかとか、何ができようかとか、そんなことを考えたとしても、一年365日という限られた時間の中で何かを成し遂げるというのは、なかなか容易なことではないようにも思えてくる。それとも、私の努力が足りないだけなのだろうか。何かをしようと決めても、結局は何もしないかもしれないことへの、ただの言い訳なのだろうか。そんな一年のことで悶々としているとき、ふと思い出したことがある。遠い昔、荒野を四十年間さまよったイスラエルの民がいたということを。
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つまずきの石

律法学者や祭司長などの指導者たちとの対立の後、イエス・キリストは人々にあるたとえ話をされた。その場に集っていた人々に向かって話をしたということは、当然ながらイエスとの議論に決着をつけることができずに不満に思っていた指導者たちも、まだそこにいたに違いない。イエスの話されたたとえはこうであった。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」(ルカの福音書20章9~16節)

そしてイエスの話を聞いて、人々はこう言った。「そんなことがあってはなりません。」(同16節)
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