「俺、クリスチャンなんです」

私が人に「俺、クリスチャンなんです」とか「俺、教会通ってるんです」などと言うと、クリスチャンではない周囲の人たちからは「ふーん、そうなんだ」とか「お前ンとこはクリスチャンなのか?」とか「それは偉いねぇ」などといった様々な反応が返ってくる。ところが、なぜ私がクリスチャンであるかを聞いてくる人は皆無と言ってもいいほどいないのである。どうやら、彼らにしてみれば私がクリスチャンであるのは、つまり私がクリスチャンの家に生まれたからクリスチャンなのであろう、といった解釈をしているに違いない。だいぶ前の話であるが、クリスチャンとは生まれつきではなく、自分で決めてなるものだと言ったときに驚かれたことがあるくらいだ。そんなわけで、「両親もクリスチャンなんだ?」と聞かれ「いや、違うよ」と答えると、毎度のように決まって不思議そうな顔をされ、会話がそこで途切れてしまうのである。

さて、特に人から聞かれたりしているわけではないのだが、もしかしたら私がクリスチャンになった経緯を詳しく知っている人がいないかもしれないので、せっかくなので長いかもしれない話を短くしないで、いっそのこと気の向くままに長く書いてみたいと思う。

そもそも私が最初にキリスト教に接したのは留学中の一九九二年のことである。それまでは宗教というものに対して興味をもったことはないが、占いやまじないといった類のニューエイジっぽいものにはちょっと興味を持ったこともあり、何度かその手の本を読んだこともあった。いや、今思い出せばアヤシイ世界に引きずり込まれてしまいかねない妙な素質があったのかもしれない。もしかしたら駅前で「祈らせてください」という連中に「なんだろう?」と釣られてしまう可能性はあったかもしれない。かと思えば両親の留守中に訪ねてきたエホバの証人に対して、居合で使うような模造刀をもって応対したこともある。なにはともあれ、私の両親にしてみればヘンな宗教に入らないでくれてよかった、と安心してくれているようである。

しかし、このような超自然的なものに惹かれてしまうのは私のどこかに人間の常識を超えた何者かの存在を信じていた、と言ってしまうといいすぎなような気がするが、そのような何かが存在するのではとぼんやりと考えていたからであろう。もっとも今振り返ってみればそのような時期が長く続いたわけでもないような気がする。

さて、アメリカに渡ってからは、進路のことを考えたり、英語の上達のことを考えたり、とそれなりに忙しくもあれば楽しくもあり、時として不安に感じることもあったが、毎日しっかりと生活することで精一杯であったような気がする。そんな日々であるから「人間の理解を超えた存在」などというものについてはこれっぽちも考えることはなかったのである。

そのような毎日を過ごして半年以上が経つ頃であったが、シアトルにある公立の短期大学に通うことに決めたのである。まだ大学で何を勉強したいか定まらなかったので、まずは一般教養を学びつつ進路を考えて、卒業してから大学に編入しようかと考えていたからである。入学初日、私たち留学生は新入生対象の説明会に参加しなければならなかった。いろいろな人がきていろいろな話をするのである。慣れない土地で生活をし学ぼうとする留学生たちを応援しようというのが彼らの目的だったのであろう。そのなかの一人に無料で英会話のクラスを開いているという婦人がいたのであるが、実際のところ英語にはそれなりに自信があったので「関係ないか」と思い、回されてきた申込書を隣の学生に渡そうとしたら「タダだから申し込んでみたらどうだ?」と言ってきたのである。大きなお世話だ、と思ったが、タダだから損することもないか、とも思ったので、彼に言われたままに申込書に自分の氏名、住所、電話番号を記入したのである。このお節介な彼が誰であったのか、この時以来学校内で出会った記憶もなく、今もって謎に包まれた人物である。今考えればもしや天使だったのではとさえ思えてしまう。

(続く)