週末の夜にこれといってやることもなく

しかし土曜の夜と言っても一人暮らしで、近くに知人も友人もいなければ、私のアパートの部屋にはテレビすらもなかったので、退屈というか寂しいこと極まりないものであった。そんなわけで、週末の夜にこれといってやることもなく、ひとりでいるのも気が進まなかったので、ひとまずその「聖書の勉強会」なるものに顔を出してみようかと思ったのである。

神を求める、聖書を学ぶ、などとといった高尚な理由ではなかった。むしろ暇つぶしと寂しさを紛らわすといことが主たる理由であって、そのついでに聖書の勉強会とは何かと様子を窺うという目的で出掛けることにした。

だからといって、聖書に対してまったく興味がなかったというわけでもない。少しであったかもしれないが聖書には興味があった。もっとも、どうしても読んでみたいと思うほどの熱意もなかった。おそらく聖書という今まで私が出会ったことのない未知の物事に対する興味だけだったのかもしれない。

さて、聖書の勉強会とはどのようなものであったかというと、結論から述べてしまうことになってしまうが、それはなんとも居心地のよいものであった。あの心地のよさというのは、その後何度も続けて勉強会に参加することになった私が、いつも勉強会にいく度に感じていた心地のよさである。数年前に日本に帰ってきてからは、そのような心地よさというのも感じることがなくなってしまったのが残念に思えて、不思議と今日でさえあの勉強会が懐かしく感じられてしまうのである。

では、もっと具体的にいうとこの聖書の勉強会では一体何をやっていたのであろうか。

マッスルマンさんのお宅に伺うと、そこには英会話のレッスンで何度か顔を合わせたことのある留学生やアメリカ人ボランティアの方々もおられたので、まったくの他人だけという雰囲気ではなかったので一安心であった。

ある程度人が集まり約束の時間になると、まず食事である。ところで、参加する前に教えられていたことがあった。なんであるかというと、食事は用意してあるので、そのことについては心配しなくてもよいとのことである。今でもそうであるが、当時もやはり「食事が用意されている」という言葉には弱かったに違いなかったようで、どのようなものが用意されているのだろうかと、期待をせずにはいられないものであった。さて勉強会の夜の食事とは、みんなが持ち寄ったものを、これまたみんなで食べるという具合であった。ところが集まる人たちの中には中国出身の方々もおられたので、文字通り中国家庭料理なるものや炊き立ての白米もメニューの中にあり、毎晩のようにフライパンで炊いた米らしき穀類とソーセージばかりをひとり侘しく食べていた貧乏留学生にとってはなんともありがたいものであった。なんといっても、その当時は炊飯器というのは高級品の部類にあったのである。

食事が終わって一通りみんなが満足したころに、いよいよ聖書の勉強会なるものが始まる。初めて参加したわりには、腹が十分に満たされていたせいか、ずいぶんとリラックスすることのできる私であった。全員がリビングに集まると、薄っぺらい歌集のようなものと分厚い聖書がひとりひとりに渡された。そして、メラニーさんのご主人であると先ほど食事の時に紹介された日系のデイブという小柄な方がギターを弾き始めると、新参者の私を除いて、みんなが歌い始めるのであった。

当然、私には何のことやら分からずにチンプンカンプンである。近くにいる人がここだと先ほど渡された歌集の開いたページを見せながら、親切に教えてくれるのであるが、なにぶん初めてのことなのでさっぱりである。みんなが歌うのを聞くので精一杯だ。しかもアメリカに来てから、いや、高校で音楽の授業を受けて以来、歌うということをしていなかった私には、いきなり英語で、しかも今までに聞いたことのない歌を歌うなどというのは、どだい無理な話であった。

これが世間で言うところの「聖歌」とか「賛美歌」というものなのであろうか。イメージしていたものとはだいぶ違うものであった。生演奏だったからであろうか、聞いていて悪くないものであった。

(続く)