マイ バイブル

一通り歌を歌うのが終わったら、いよいよこの集まりの(おそらく私以外の人々にとっては)一番の目的である聖書の学びである。食事で言うのならば、歌を歌うのが前菜なら、聖書の学びはさながらメインディッシュとでも言えるところだろう。とはいっても聖書を読むのはこれが初めて、当然ながらそれを「学ぶ」ということも私にとってはまるで初めてのことである。何をどうするのかさっぱり分かるわけがない。

思えばこれが私が生きてきた中で経験した最初の宗教に関係のするイベントであったといえるだろう。その時までに何度も初詣などで神社やお寺にお参りに行ったことはあるが、それらは宗教とか信仰とかとはまったく関係なく、私にとってはむしろ生活を営む中における習慣の一部というものでしかなかった。そう、前にも書いたが、私と信心深さなどというのは無縁のものであった。そんな私が理由は人とは異なっていたが、聖書の学びという、信仰心のあるクリスチャンやクリスチャンではなくても聖書に対して興味がある人たちの中に我が身を置くとは、なんとも面白いことのようにも思える。

さて、聖書の学びとは、何も特別に儀式めいた何かをするというわけでもなく、聖書の中の決められた個所を全員で読んで、それについて考えてみるという具合であった。考えてみれば学校の授業とさほど違っていることもない。ただ教科書が聖書になったようなものである。私が参加した時は、新約聖書にあるヨハネの福音書というところから学んでいた。ヨハネの福音書と言っても全部で二十一章もある。さすがに全部を読んで学んだわけではない。なんと言っても英語の聖書を使っているのだから、全部を一度に読むというのはまず不可能に近い。そんなわけで、その夜はどこの箇所であったか今では忘れてしまったが、その二十一章あるなかのどこか一箇所から学んだのである。

残念ながらその夜に何を学んだのか、今となっては思い出すことができない。おそらく初回だったので、私の耳に入ってくることは筋の通った内容ではなく、どちらかといえば断片的な情報だけであったのかもしれない。ただ、私を驚かせたのは、そこにいたひとりひとりの聖書に対する熱意とでもいおうか、聖書に対する思いの入れようである。教える側のデイブ・カネシロさんのように聖書に親しみを持つ人もいれば、そんなデイブさんにいろいろと質問を投げかける、というよりも議論をふっかけようとしているジャックという中国人の方のように、聖書に対して懐疑的な人もいるという具合である。態度や考え方こそ違うが、ひとりひとりが聖書を気にしているのである。なんでこの人たちはそれほどまでに聖書に熱中しているのであろうか。そう思った私は聖書をもっと自分で読んでみたくなったのである。

そして聖書の学びもその後のデザートの時間も終わり、みんなが家路につく時間になった。

「すみません、ひとつお願いがあるんですけれど・・・今夜使ったこの聖書を来週まで貸してくれませんか?自分でも読んでみたいのです。」キムさんに聞いてみた。どう見ても貸し出しを目的としたもののようには見えなかったので、あまり期待をしていなかったのだが、キムさんの返事はそんな私の期待を良い意味で裏切るものであった。

「ええ、もちろん!それはあなたにあげますよ。」借りるどころか、聖書をもらってしまったのである。私は遠慮をするでもなく、”Thank you very much!”と言って、聖書をそのまま自分のものとしたのである。

それからしばらくの間、この聖書を「マイ バイブル」とばかりに大事にして、夜な夜な読んだり、その後の聖書の学びや、さらにその後の教会に行く時には必ず持って出掛けていたのであるが、いつの間にやら行方不明になってしまった。

週末の夜の時間つぶしと聖書の学びとは何ぞやと偵察に行った私であったが、その夜は私と聖書の初めての出会いの夜となったのである。

(続く)