ひとつは天国が存在すること

その夜アパートに帰ってから、初めて手にした聖書を読み始めた。まずは手始めにその日に聖書の学びで読んだヨハネの福音書を読んでみることにした。さて、読み始めてはみたものの、英語であるせいか、書いてある内容がまったく新しいことであったからか、何を書いてあるのかさっぱり分からなかった。次回の聖書の学びの時までに、ヨハネの福音書を読破しようと思い、その夜から一生懸命に聖書を読むことにした。いや、一生懸命と言うよりは、勢いに乗ったと言った方がいいのかもしれない。もしかしたら、クリスチャンになってから十年近くなるという今よりも夢中に読んでいたかもしれない。

とはいっても、そこに書かれていることを理解できたかどうかというと、案外そうでもない。むしろ、私に理解することができたことはほんのわずかであった。ひとつは天国が存在すること。もうひとつは、神が人の罪を赦すことができるということ。そして、罪を赦されたものは天国にいくことができるということ。この三つだけであった。

さて、天国と漠然と言っても何のことだか分かってもらえないかもしれない。もちろん天国がなんであるかその当時の私にもはっきりとは分からなかった。ただ私にとって、そこは「よいところ」であるということであった。もっともクリスチャンになった今でこそ天国がどのようなところであるかを多少なりとも理解できるようになったが、その当時の私は単純な理解しかしていなかった。ただし、天国はどのようなところであるかは、今追求するつもりはない。

また神が人の罪を赦される方であるということも、やはり抽象的であるといえよう。これについてもここではあまり細かいところまで考えてみようとは思わない。ただ聖書にそのように書いてあったことが、当時の私のココロとアタマになんとも深い印象を与えたのである。人によっては何とも思わないことかもしれないが、その当時私は自分のことを大変に罪深い人間だと思っていたからだろう。なぜ私が自分のことを罪深い人間だと思っていたのかは、正直よく分からない。子供の頃よく親に怒られていたせいだろうか。確かに怒られた回数を数えると、私は立派な罪人であると言えるかもしれない。怒られた回数と同じくらいの悪いことをしてきたのであろう。それに親に見つからないところでも、悪いことをしてきたかもしれないから、その罪の数ときたら、星の数ほどになるかもしれない。いや、それはちょっと大袈裟過ぎるかもしれない。

そのような二つのことを考えてみると、私が「よいところ」と単純に考えていた天国という場所には、罪を赦された者が行くことができると、聖書に書いてあることを読んだとき、このことはすんなりと私の知るところになったのである。

聖書の教えること、というとなにやら難しいことという印象がある。たしかに聖書を掘り下げていけば、この世にこれほど複雑なものはないのではないかとも思える。しかし、当時の私にとってはそのような複雑なことは理解もできなかったであろうし、また必要でもなかったのであろう。何はともあれ聖書に書かれていることのひとつでも知ることができるのであればそれでよかったのだろう。

しかしひとつの発見があったところで、所詮それはアタマの中での理解である。それを知ったところで何か得したことがあるかといえばそうでもない。信仰心が生れたわけでもなければ、悟りを開いたわけでもない。ただ、「罪を赦された者はよいところ(天国)にいける」と聖書に書いてあり、「あぁ、そうですか」というだけであった。

今でこそ、これは聖書の中で一番大切なことであり、大切なことであるからこそ、聖書を生れて初めて読んだことのある私でも理解することができたのであると思い起こせるのであるが、当時の私にとっては「あぁ、そうか」と思えるだけのものであった。

しかし、この「あぁ、そうか」という思いと一緒に「天国がよいところであるならば、行ってみたいものだ」と考え始めるようにもなったのである。どうせ行くならよいところに行ってみたいという、単純というか自己中心という考えで、「聖書の真理を知りたい」とか「信仰心を持ちたい」とかいう高尚な考えではなかったのである。

(続く)