日曜礼拝というもの

そして私は再びマッスルマンさんの家にやってきたのである。察するにパーティーの片づけがひとまず落ち着いたようであった。

「子どもたちはもう休んでしまったわ。」キムさんが言った。そう、マッスルマン家には三歳と八歳の小さな姉妹がいるのだ。下の子はケルシーという名で、上の子はディナという名である。たしかに可愛い子達であったが、どうにも子供というのは私は苦手であった。

玄関を入ってすぐのところにある階段を下って行った所にある客間に案内された。洗面所の場所を教えてもらい、その晩はすぐに眠ることにした。さすがにパーティーと突然の宿泊客とで、家の住人たちは疲れていたに違いない。また、私も生れて初めてのアメリカでのクリスマスパーティーと、これまた生れて初めての泥棒騒動でぐったりであった。

「明日は午前中教会に行くけれど、かつはどうする?興味があれば来てみるといいと思う。」寝る前にブルースさんがそのように声を掛けてくれた。そういえば、翌日は日曜日である。マッスルマンさんたちはクリスチャンなので、なるほど教会に行くのはもっともなことだと思った。もちろん教会で行われる日曜礼拝というものには興味があったし、またクリスマスコンサートのために教会に足を踏み入れた翌日であるから、普段教会でやっていることを見てみたいという思いはなおさらである。

さて、ベッドに入って思った。家というのは、たとえそれが他人の家であっても、ひとたび迎え入れられると、心と体の休まる場所ではないかと。アメリカに来てからというもの、寮やアパートという寝るためだけに存在するような場所で生活してきたために、こうして「家」という場所、人が日常生活を営む場所というのは、不思議と安心に思えるものである。

さて、翌朝身支度を整えた後、キッチンへ行った。私が姿を現すと子供たちが、けらけらと笑いながら元気よく挨拶をしてくれた。なにやら話してくれるのだが、なかなか聞き取れない。子供の英語と言うのは聞きづらいものだと、この時初めて気付いたのである。大人であればきちんとした発音で、きちんとした英語をはなしてくれるのであるが、子供は教科書通りのことばではなく、自分のことばで、しかも早口で話すのでなかなか理解することができない。分かってあげられないので、私としてもにこにこ笑ってうなずくことぐらいしかできないので、なんだか申し訳なくなってしまうのである。

さて、何でも子供たちは日曜学校があるとかで、一足先にブルースさんに連れられて出掛けてしまった。私はしばらくしてから、キムさんと一緒に教会に行くことになったのである。

朝の教会の様子は前夜の華やかさが夢であるかのように落ち着いていた。昨日の夜はやはり特別な時だったのであろうか、それとも私自身がお祭気分で浮き足立っていたからだろうか、教会がコンサートホールかなにかのように私の目に映っていたのである。しかし、この朝の教会は、ごく普通の建物にしか見えなかった。あのほの暗くて厳かだった礼拝堂は、光の差し込む明るい講堂のようであった。人で溢れていた入り口のホールも、ひどくすっきりとした感じのたいして飾りっ気のある場所でないことにも気付いた。改めて見回してみると、教会というのは荘厳な場所というよりも、明るくて地味な場所であると説明する方が相応しいと思えるくらいであった。私が思い描いていた厳かで重苦しい雰囲気をもつ教会とは、ずいぶんと違う存在であった。たしかに、アメリカ滞在中には、私がイメージしていたような教会を目にすることは幾度となくあったが、いかにも「宗教」という雰囲気が感じられ、むしろ威圧感というか「部外者は受け付けません」といった様子があり、どうにも近づきがたいと感じてしまうものが多かった。

私が礼拝に出席する目的で初めて足を踏み入れた教会は、West Seattle Conservative Baptist Churchという。不思議とそこには、マッスルマンさんの家でも感じた、「家」だけが持ちうる独特の空気が漂っていた。おそらく教会にはクリスチャンの日常の営みがあったのだろう。

(続く)