不思議とおもしろさを感じてしまい

こうしてマッスルマンさんの家で生活をするようになってから、しばらくの時が経ち、私がアメリカに渡ってから二度目の春を迎えるくらいの時期になった。思えばいろいろなことがあり単調な生活が続くことがなかったためか、退屈するということとはまったく縁のない一年であった。

さて、越してきてからはそれでも目立った出来事もなく平穏無事な日々を過ごすようになってきた。マッスルマンさんの家―すなわち私が住んでいる場所―では相変わらず英会話クラスを開いており、またその一方、週末の夜には聖書の勉強会も行われているという具合であった。当然の結果と言おうか、住人となってしまった私は、人から言われたわけでもなく、どちらもほとんど欠かすことなく出席するようになっていた。ところで、ホームステイをしていると英会話クラスに対する熱心さというのが徐々に失われてしまうのであろうか、この後しばらくして私は顔を出すこともなくなったである。

そのようなわけで、私の熱心さというのは、学校の勉強を除けば、土曜の夜の聖書の学びに向けられるようになったのである。ところで何度か出席していると次第に他の留学生や、別の事情で―決して怪しげな理由ではない―アメリカに来ることになった外国の人たちとも知り合うようになったのである。たまにしか顔を出さない人たちもいれば、またほとんど毎回のように出席する人たちもいた。さすがに今となっては誰が誰だのというようなことを思い出すことはできないが、それでもわずかではあるが今日でさえ記憶されている人たちもいる。今でも覚えているということは、やはり頻繁に会っていたということもあるだろうし、それなりに印象に残る人たちでもあったのだろう。台湾からの留学生で、リーリンさんという私よりひとつかふたつ年上の女子学生、中国本土から仕事のためにアメリカに引っ越してきたジャックさんとクリスタルさんという夫婦、なんでもシアトルにある中国系水産会社の偉い人らしい。いずれも英会話ではあまり見かける顔ではなかったが、聖書の勉強会ではよく一緒であった。さて、おもしろいことに気付いたのであるが、アメリカ人で参加する人たち、つまりマッスルマンさんたちや、カネシロさんたちはみなクリスチャンであったのだが、リーリンさんにしてもジャックさんやクリスタルさんにしてもクリスチャンではなかったのである。そしてもちろん、私もクリスチャンではなかった。

そもそも週末の暇つぶしと興味本位の様子見という、高尚でも何でもない理由で顔を出してみた聖書の勉強会ではあったが、聖書というものに不思議とおもしろさを感じてしまい、いつの間にやら自分でも聖書を読むようになり、また勉強会にも続けて参加するようになった私である。彼らも私と似たような理由で勉強会に参加していたのであろうか。

さて、他の人たちが聖書の何に興味をもっていたのかは、本人ではないので私には本当のところは分からない。しかし、私の聖書や神様やキリスト教というものに対するもっぱらの関心ごとと言えば「天国は良さそうなところだ、是非とも行ってみたいもんだ」ということくらいである。いや、どうにも自分が生きている目的を追求するだのといった高尚な話題は私には似合わないらしい。

クリスチャンではない私も聖書を読んでいたため、天国に行くためには自分の罪を神様に赦してもらわなければならない、というところまではちゃんと理解できたのである。ところが、私もひねくれたもので「神様といえども、俺の罪は赦せないに違いない」と考えていたものだから「やはり俺は天国には行けまい」という結論にいつも達してしまうのであった。しかしまたそんな諦めを感じつつも「やはり天国に行きたい」と考え始めるので、私のココロとアタマはこのことを考える度に堂々巡りに陥るという具合であった。当然ながら、信仰心とは程遠い私であった。

ちょうどこれくらいの時期であろうか、聖書を読んでいると、神様というものがえらくおっかない存在のように思えてくるようになったのである。神様は悪いことには目を閉じていることのできない方であることをうすうす知るようになったからである。

(続く)