冷汗をかくような経験

ということは、マッスルマンさんたちが話していた夢物語のような話は、もしや本当だったのか。もしそうであるならば、クリスチャンではない私を残したまま彼らが消えてしまうのことも、ありえないことではなかった。しかし、まさかその時がこんなにも早く来るとは半ば信じられなかった。だが、クリスチャンであるマッスルマンさんたちが、私が気付かぬ間にいなくなっているのは明らかなのである。

さて、マッスルマン一家がいなくなってしまった理由が掴めてくると、これからどうしたらいいのだろうかと今度は不安になってくる。一人後に残されたことが分かると、晩御飯はどうしようか、今夜もここで休んでいいのだろうか、はたまた他人事ながら彼らの家や車その他諸々の所有物をどうしたらいいのだろうか、などと現実的な目の前の問題が気になってくるである。消えてしまった方はそれでいいのかもしれないが、残されてしまった方はたまったものではない。空き巣に遭った時には、警察に連絡するなどそれなりに常識に従って行動をすることにより解決できたが、今回ばかりは前代未聞なことだけに常識も何もあったものではない。それこそ、世界中のクリスチャンがマッスルマンさん一家同様に消えてしまったのであるなら、おそらく私のいるところだけではなく世界の至る所で大混乱となっていることだろう。しかも、カネシロさんたちのように困った時には頼ることができそうな人たちもやはりクリスチャンであるから、同じようにいなくなってしまったであろうから、彼らに連絡することもできない。さて、どうしたものか、と玄関の前でぼんやりと突っ立っているばかりであった。

まぁ、クリスチャンではないから、置いていかれてしまったのは仕方ない。そう諦めることはできた。また驚きのあまり七年間続くと彼らが言っていた反キリストの支配もアタマから抜けてしまっていたので、そのために無駄な心配をすることもなかった。私にとってもっぱらの心配は今日明日の宿と飯のことくらいであった。住人が消えてしまった家で、食事をしたり夜を過ごすとは、どうにも気分が晴れないものである。状況が状況とは言え、それではまるで自分が盗人か何かのように思えてならなかった。

その時である。背後で玄関の網戸が開く音がしたので振り返って見るとと、ディナとケルシーがニコニコしながら私の方を見ているではないか。

「ねぇ、かつ、なにやってんの?」

「あぁ、みんなの姿が見えなくなってしまったので、どうしたのかと思って探していたんだよ。」

そのまま玄関から家に入ると、ちょうど買い物袋を手にして階段を上ってくるキムさんに出会った。その後ろからは仕事の帰りと思われる格好をしたブルースさんもいた。こうして本来の住人が戻り、また家は普段の騒々しさを取り戻した。

結局、世の終わりでもキリストの再臨でもなかったらしい。どうやら私が部屋にいる時に、仕事の帰りのブルースさんがキムさんと子供たちを車に乗せて買い物に行ってしまっただけであった。そして、私が部屋から出ると誰もいなかったために「しまった!みんな天国に連れて行かれてしまった!」と思い込んでしまっただけのことらしい。冷静に考えてみれば、しばらく様子を見ればいいものを、なにぶん「世の終わり」の話がまだ記憶に新鮮なうちだったので、とんでもない早とちりをしたに過ぎなかった。どうにも話すのもみっともないようなので、キムさんたちには何も言わないで黙っていることにした。

もし今の私がその当時の私を目にしたならば、それだけ冷汗をかくような経験をしたのであれば、ぼちぼち信仰を持ってクリスチャンになってもよさそうなものではないか、と思ってしまうのであろう。しかし、当時の私はその後マッスルマンさん一家が何事もなく普段の生活をしているのを見て、すっかり安心してしまい、「あれはやはり私の勘違いだったのだ」と納得して、それ以降はこのことについて考えることもなく過ごすのであった。のん気というか鈍感というか、しかし人というのは、危険が去ってしまうとまた油断をしてしまうものなのかもしれず、また私もそのような一人でしかなかった。

(続く)