サマースクール

「神様のことを信じていながら、神様が罪を赦すことができないと考えているのなら、それは間違っています。それは本当に神様を信じていることにはならない。」

さて、信仰を持っていなかったとはいえ、神様という存在を私は信じていた。そのようなわけで、この人の言葉はあたかも私に向けられて語られているかのように思えたのである。確かに、その時の私の状況にぴたりと当てはまっていたと言えよう。漠然とではあるが私は神様の存在は信じていた。しかし、その神様が私の罪を赦すことはできまいとも思っていたのである。それが果たして間違っているかどうかを考えたことがなかったのは、おそらくそれが当然のことのように私には思えていたからだろう。しかし、この人が言うことが本当ならば、私の考え方、思ってきたことは過ちということになる。

「そうか、今まで神様を信じてはいたけれども、神様はおれのようなつまらん人間の罪も赦す能力があるんだ。」今まで疑ってきたことと、それに気付かなかったことで、なにやら余計にまた罪を犯してしまったような気になってしまった。「神様のことを疑うとは、悪いことをしてきたなぁ」と、少しばかり後悔をする私であった。

神様とはそれほど恐怖心を抱くような恐ろしげな存在ではないのかもしれないと考えさせられた日曜も終わり、気付いた頃には空の青さがひときわ鮮やかなシアトルの夏も本番である。学校も休みになった。

話は変わるが、アメリカの大学ではサマースクールといって夏休みの間でも授業を行うところがある。これは便利なもので、夏の間に自分が籍をおいていない別の大学で授業を受けても、その単位を自分が普段通っている学校の単位として認めてもらえるのである。いつもはぱっとしない公立の短期大学に通う私であったが、夏の間だけは州立の一流大学に通って授業を受けるということもできるのである。実際に私はそうしたのである。夏のわずかな間ではあるが、一流大学の学生気取りで、鼻高々である。さて、私は外国語の単位が必要であったので、夏の間に授業を受けてしまおうと考えていた。そんな私が選んだのはギリシア語である。アメリカでは外国語としてスペイン語が一般的であったようだが、私はそのようなことよりも、興味のある聖書、とくに新約聖書がもともとはギリシア語でかかれていたという理由で単純にギリシア語を知りたかっただけである。もっとも大学で教える現代ギリシア語と聖書が書かれていたギリシア語では、日本語で言うと古文と現代文のように異なっていたのかもしれないが、そのような細かいところは別として、なんとなくでもいいから聖書が最初に書かれた言語で読むことができればそれでいいと思っていたのである。

さて、映画にでも出てきそうな煉瓦の建物にある教室の中で、私はギリシア語のABCを覚えたり、簡単な単語や文法を覚えたり、ギリシア語の文章を英語に訳したり、またその逆のことをしたりという具合であり、今では考えられないことであるが、毎日新しいことを知るのが実に楽しく感じられた。州立の大学でありながら、聖書の文章も課題で取り上げられたこともあったため、私にとっては聖書を原語で読む機会も得られたので、文句のない経験ができた夏であった。しかし、残念なことに、というか私が怠慢なだけであるのかもしれないが、単位を取ってしまった後は、復習することもなければ、聖書を原語で読むことにも挑戦することはなかったのである。これではなんのためにギリシア語を学んだのか意味がなくなってしまう。

ところで、このサマースクールであるが、マッスルマン家でやっている聖書の勉強会に私を誘ってくれた、メラニーさんも別のクラスにいたのである。

(続く)