人を助けるとは

情けは人のためならず、というのは昔から言われている言葉である。人に情けを掛けると、その情けは巡り めぐって自分の元へ返ってくるということだ。人に親切をすると、いつか自分がその親切を受けることになる。人に対して善を行うということは、最終的には自分にとって善を行うということだ。もちろん最初からそのようなことを期待して行動する人はいないだろう。不思議と人は誰かが困っているところを見ると何かしたくなるのかもしれない。純粋な相手への思いやりから助ける人もいるだろうし、むしろ義務感や正義感といった道徳心に従って動く人もいるだろう。もしくは、人から言われたからとか、誰かがやっていたからという主体性のない人もいるかもしれない。中には相手から何かしらの見返りを期待する人もいるかもしれないし、困っている相手に施すことによって優越感を味わう人もいるかもしれない。もしかしたら、罪滅ぼしのつもりで行動する人もいるかもしれないし、善行をすることに快感を覚えるから人助けをするというエゴイスティックな人もいるかもしれない。これはいわゆる偽善というもので、あまり褒められるものではないだろう。しかしどこかで聞いた言葉であるが「やらない善よりやる偽善」とも言うように、助けられる側の視点から見れば、ありがたいものであることに違いはあるまい。

先月の震災に関しても国内はもとより、国外からも多くの支援を提供されたが、この事実だけを見ても、人 は困っている人のために何かをしたくなるということに異存はあるまい。各々の動機がどうであれ、結果として表れる行動によって、困窮している人々が助けられるということに違いはないだろう。

そう考えると、人間の中で根っからの悪人というのは、極めて少数派なのかもしれない。しかしながら聖書 は「人は生まれながらにして罪人である」と言うではないか。ところが世の中を見ても、身の回りを見ても、罪人と呼ぶに相応しい者が見当たらないのである。好きになれない連中とか、受け入れがたい連中とかがいるとしても、それは私の個人的な感情や思いであって、彼らが罪人であるというわけでもない。どちらかと言えば、世の中の大多数の人々は、不完全で欠点こそあれ根は良い人間であろうと思う。性善説か性悪説かの二択を迫られたら、前者と答えるであろう。それでも人間というのは「生まれながらにして罪人」なのだろうか。

罪人と聞くと、悪人と同義語のように思いがちである。確かに日常会話の中ではそれで通用するだろう。し かし聖書の考え方に従うのであれば、罪とは神に対する罪を意味するのであって、単なる悪事や失敗や過ちを意味するのではない。では神に対する罪とは何であろうか。簡単に言うならば、神に従わないということである。罪という言葉(もちろん日本語ではなく聖書が書かれた原語)には「的を外す」という意味がある。すなわち罪とは、神に対して向けられるべき熱心さが、自分自身に向いてしまった状態を指し示しているのであろう。「人は生まれながらにして神から離れて自己中心である。」こう言い換えてみると少しは理解し易いかもしれない。

そのような利己的に生まれついた人間でさえ、困った時には人を助けようと思い、実際に何かをすることが あるのだ。ましてや人間に特有の私欲を持たぬ神が、困っている人に手をさしのべずに放っておくことがあるだろうか。神は人が何かを必要としているのであれば、惜しみなく与えて下さるはずだ。

そのような神がおられるという前提で、イエスはこう言っている。「何事でも、自分にしてもらいたいこと は、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイの福音7章12節)

難しいことを言ってはいない。相手の立場に立って、相手がどうして欲しいかなどと考える必要はない。人 の考えを読むことは到底できないだろう。しかし自分のことであれば誰でもちょっと考えれば分かるだろう。どうしたら自分が助かるのか、どうしたら自分は喜ぶのか……。自分だったらこうしてもらいたい、そう考えて人に接するだけである。その気になれば誰でもできるようなシンプルなことではないか。実はこのような簡単なことが、他の複雑な規律などを守ることよりも、結果として神に従うことになるのだろう。