狭き門

「狭き門」というフランス文学作品がある。正直に言うが、私は読んだこともなければ、どのような物語な のかも知らない。しかしながらその題名だけは何となく聞き知っている。そのうち機会があったら読んでみようか。でもその前にフランス語を勉強しなければ……というのは、さすがに無理だろうから邦訳されたものを読むしかあるまい。それはさておき「狭き門」という言葉を聞いて、真っ先に思い浮かぶのは、イエスのこのことばである。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。」(マタイの福音7章13節)

狭い門とは何であろうか。狭い門が何であるかという前に、キリストは大きい門について語っている。間口 の大きい門へと至る道は、これまた同様に広いらしい。果たしてその大きな門から入るとどこへ行くことができるのか。その先には何があるのだろうか。何やら良いものでもあるのかと思いきや、キリストのことばを借りるのであれば、そこで人々を待っているのは「滅び」であるとか。滅びとは何やら穏やかならぬものである。具体的に滅びが何を現わしているのかは分からないが、そこから連想されるものは死である。しかし人間という存在は、いや人間に限らずともこの世に生きるあらゆるものは、いつか必ず死を迎えなければいけない。それが一日先か、一年先か、十年先か、百年先か、はたまた千年先かは分からないが、生きているものは人も動物も植物も、例外なくいつか時が来れば死ぬのである。残念ながら不死というものはこの世界には存在しない。滅びゆくのは何も生き物だけではない。私たちを照らす太陽もやがては熱を失い消えてゆくし、その過程において地球は太陽に飲み込まれるか、もしくは融解するであろう。

生あるものは死に、形あるものは滅びるのである。人間の尺度からみたら永遠に近い時間に思えるだろうが 、本当に永遠なものはこの世には存在しない。

そう考えると、すべてのものは広い門の先に向って進んでいるようにも思える。確かに肉体的もしくは物質 的側面から考えるとその通りであろう。ところが目に見えるものが全てかというと、必ずしもそうであるとは言えない。たとえ神を信じていなくとも、目に見えぬ何らかの力を感じることが、人の一生において少なくとも一度はあるだろう。信仰を持っていればなおのこと、神に触れることができなければ、その姿を見ることさえもできないが、その存在を受け入れているではないか。神を信じようと信じまいと、五感で感じるものが全てではないということは、誰もが薄々感じているのではないか。

さて話がわき道に逸れそうになったが、イエスがここで言っている滅びに至る大きな門の先にあるものは、 誰もが経験するであろう肉体的な滅びではなく、目に見えない精神的、霊的な意味での滅びのことではないだろうか。霊的な滅びとは、すなわち霊的な存在である神から隔絶された状態を示しているのではないだろうか。たとえ肉体は健康であったとしても神に背を向けているとしたら、それは大きな門へ向って進んでいることになるのだろう。たしかに目に見えぬ神に従って歩むよりは、自分自身の思いや考えに従って過す方が、人間的に考えれば楽だし安心であろう。しかしそのような自分中心に歩む道が結果として神から離れてしまうことになるのである。

ではキリストが入りなさいと言っている狭い門とはどこへ続いているのだろうか。それについてキリストは こう言っている。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(14節)

狭い門は滅びとは反対に「いのち」へと続いているのだ。広い門の向こうにあるのが霊的な意味での死を意 味するのであれば、狭い門の向こうにあるのは霊的な意味でのいのちである。たとえ人の体は衰えて死ぬものと定められているとしても、人の心や魂は永遠に残ることもできるのだ。確かにこの世界には、全てに終わりがある。しかしこの世界を創造された神がおられる神の御国においてはその限りではないのである。

ただしそこへ至る道は狭く、見つけるのが難しいという。しかし悲観することはない。なぜならどれほどそ の道が険しいとしても、不可能な道ではないのだ。誰でもそうすることを願い求めるのであれば、その狭い門から入ることができるのである。